皇海山紀行
木暮理太郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)訳《わけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一体|何処《どこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
[#…]:返り点
(例)土也以[#二]山巓[#一]為[#レ]界
−−
降りがちな天候は、十一月に入ってもからりと晴れた日は続かなかった。ことに土曜から日曜へかけてはよく降った。この意地悪い雨のために出鼻をくじかれて、出発はもう予定より三週間も遅れてしまった。これがもし紅葉見物を兼ねての旅であったならば、目的の一半は既に失われた訳《わけ》であるが、皇海《すかい》山に登ることが主眼であったから、秋の旅とはいえ、紅葉の方はどうでもよかったのである。ただ余り寒くなって山に雪が来ては困ると思った。
皇海山とは一体|何処《どこ》にある山か、名を聞くのも初めてであるという人が恐らく多いであろう。それもそのはずである。この山などは今更日本アルプスでもあるまいという旋毛《つむじ》まがりの連中が、二千米を超えた面白そうな山はないかと、蚤取眼《のみとりまなこ》で地図の上を物色して、此処《ここ》にも一つあったと漸く探し出されるほど、顕著でない山なのである。自分も陸地測量部の男体山《なんたいさん》図幅が出版されて、始めて「皇海山、二千百四十三米五」ということを知った。そしてその附近には二千米を超えた山がないのを見て、これは面白そうだと喜んだ。勿論かく喜んだのは自分一人ではなかったであろうと想《おも》われる。
しかし実際展望したところでは、この山はかなり顕著なものである。その当時他の方面は知らなかったが、南から眺めると、上州方面で根利山と総称している袈裟丸山の連脈の奥に、左端のやや低い凹頭を突兀《とっこつ》と擡《もた》げているので、雪の多い季節には場所によっては、時として奥白根と間違えられることさえあった。東京市内の高い建物や近郊の高台から、この山が望まれることはいうまでもない。もっともそれが何山であるかは知るを得なかったが、五万分の一の地形図が刊行されて、皇海山に相当することが判然したのである。
しかし古い図書には皇海山の名は記載してない。正保図には利根《とね》勢多《せた》二郡及|下野《しもつけ》との境に「さく山」と記入してある。貞享元年九月二十九日の序ある古市剛の『前橋風土記』には、山川部の根利諸山の項に、
座句山 栂原山也気乃曾里縁魔乃土也以[#二]山巓[#一]為[#レ]界、自[#二]峰巓[#一]以南都属[#二]干根利[#一]。
砺砥沢 在[#二]座句沢南山谷之中[#一]、多[#二]砺砥[#一]。
座句沢 在[#二]砺砥沢北[#一]而隔[#レ]山沢水西流合[#二]片品川[#一]。
安永三年八月十九日の自序ある毛呂義郷の『上野国志』には、利根郡の山川の部に、
[#ここから1字下げ]
さく山。なでこや山の南下野界にあり。下野にて定顕房山という。山の南は勢多郡に属す。
[#ここで字下げ終わり]
と書いてある。座句《さく》山の項の栂原山以下は、ヤケノソリ、エンマノトヤと読むのであろう。つまり座句山、栂原山、ヤケノソリ、エンマノトヤ等の諸山は、一連の山脈をなし、その山頂が界で、以南はすべて根利に属すというのである。皇海山から西に派出した支脈に延間峠というのが通じている。エンマノトヤはこの附近の名であろうと思う。以上の記事から推して座句山の位置はよく分る。即ち利根勢多二郡の界でしかも下野との国境上にあるのである。今こそ根利村は赤城根村の中に含まれて、利根郡に編入されているが、もとは北勢多郡の村であった。富士見十三州輿地全図には果して根利村(本図には誤って利根となっている)の東北隅利根郡に接して、下野境にサク山と記入してある。座句は即ちサクであり、その位置から推して皇海山に相当するらしく思われる。もしそうとすれば座句沢というのは、今の不動沢|乃至《ないし》栗原川を指したもので、砺砥沢は砺沢なること疑《うたがい》を容《い》れない。
『郡村誌』によると更にそれがたしかだ。同書利根郡平川村の山の部に、
[#ここから1字下げ]
笄山。勢多郡ニテ之ヲサク山ト云。下野上野両国ニ跨リ、高峻ニシテ高不詳。村ノ東南ニ聳ヘ、南辺根利村ニ属ス。峻ニシテ登路ナシ。樹木栂椴ヲ生ズ。山脈南方ニ施テハ下野国足尾山庚申山ニ連リ、東方ハ日光山ニ連ル。
[#ここで字下げ終わり]
とあるので、サク山の座句山と同一山なることも、またそれが皇海山に一致することも、説明を待たずして明《あきらか》である。
それから笄山だが、これは『郡村誌』に読方が記入してないので、音読するのか訓読するのか判然しないが、普通にはコウガイと訓読するのが間違のない所であろうと思う。『郡村誌』の編纂されたのは、明治十二年十二月であるから、その頃利根郡ではコウガイヤマとかコウガイサンとか呼んだものであるらしい。明治廿一年の平川村の書上には、不幸にして此山の記事がない。が、追貝村の書上の水脈と題する欄に、
[#ここから1字下げ]
栗原川ハ源ヲ皇開山間ニ発シ、千屈万曲、本村ノ西南ヲ流レ、大楊村トノ地勢ヲ両断シ、終ニ片品川ニ注入ス。
[#ここで字下げ終わり]
また瀑布の欄に、
[#ここから1字下げ]
猪子鼻《いごはな》滝、所在木村字猪子鼻。高三十丈、闊七間。水源、本村正東皇開山烏帽子岳ノ中央ヨリ発シ、片品川ニ入ル。
[#ここで字下げ終わり]
という記事がある。猪子鼻は猪ノ鼻とも称し、地誌などにも猪ノ鼻の瀑は、上野第一の瀑布であるように記載してあるが、大町桂月氏の『関東の山水』を読むと、上州の山水の第七節に「土地の名勝をかき出せとその筋より達しのありし時、円覚は大瀑なれどその名が面白からず、猪の鼻の名の方が面白ければ、猪の鼻の名を円覚の実にかぶらせたるなり」とあるように、実はさほどの瀑でもないので、その上流にある円覚の瀑の方が遥《はるか》に大きいのである。土地の名勝をかき出せとその筋からの達しで書き出されたのが、ここに引用した『郡村誌』の記事で、この記事がもとになって多くの地理書に実際と相違した誤を伝えるようになったのである。それはとにかく滝の方は記載が不完全で、水源は判ってもそれが何川に在るのか不明である。けれども事実真の猪ノ鼻の滝は栗原川に懸っているし、猪ノ鼻と誤り伝えられた円覚の瀑は栗原川の上流不動沢に懸る瀑であるから、その水源に在る皇開山は笄山であることは疑なきことである。してみると明治廿一年頃は、笄山は皇開山とも書かれたものと見える。それが皇海山となったのは不思議でも何でもないが、スカイと呼ばれるようになったのはいつ頃からの事であるか知らないが、勿論最近の事であろうと思う。皇海が何かの原因でスカイと誤読されてそのまま通用するようになったものであろう。皇は「すめ、すめら」と読むから皇海をスカイと誤読することは有り得よう。座句は無論サクと読めるし、コウガイがクワウガイと漢字をあてられることなどは、地方には稀でない例である。
『上野国志』にはこの山を下野にて定顕房山というとある。附近には宿堂房山というのがあるから、定顕房もあり得べきはずであるが、今もかのような称呼が存しているや否やを知らない。『関東の山水』の中、野州の山水第二節庚申山の条に左の記事がある。
[#ここから1字下げ]
なお二、三里ゆけば、大岳山あり、庚申山の繁昌せし頃、そこを奥院としたる由なるが、今は、ゆくものほとんど無しとの事也。社務所には、案内する者なし、こは、他日別に導者をやといて、さぐらむと思いぬ。
[#ここで字下げ終わり]
この大岳山という名は自分もかつて聞いたことがあって、庚申山に連る尾根の最高点鋸山がそれであるように教えられたのであるが、それは誤であって、大岳山は皇海山に外ならぬのであった。皇海山の絶頂三角点の位置から少し東に下ると、高さ約七尺幅五、六寸と思われる黄銅製らしき剣が建ててあって、南面の中央に庚申二柱大神と朱で大書し、其下に「奉納 当山開祖 木林惟一」と記してあり、裏には明治二十六□七月二十一日参詣□沢山若林五十五人と楽書がしてあったのみで、奉納の年月日は書いてなかった。余事ながらこの木林惟一というのはどういう人であるかと、足尾におられた関口源三君に調べてもらったところ、東京の庚申講の先達《せんだつ》であって、この人が庚申山から皇海山に至る道を開き、そこを奥院とした。庚申山中に奥の院はあるが、これはつまり庚申山という一の山に対する奥の院の山という意味であるらしい。同時に松木沢からも盛に登ったものであるという。庚申山からの道は尾根伝いであったか、または一旦松木沢に下りてから登ったものか、松木沢からの道とともに今は全く荒廃して不明であるが、尾根の各峰に地蔵岳、薬師岳、白根山、蔵王山、熊野岳、剣《けん》ノ山、鋸山等の名称が附してあるから、あるいは尾根を通ったものかも知れぬ。連脈の最高点は鋸山で、上野国境に跨《またが》っている。そして庚申山よりは高い。其処《そこ》から展望した所では、尾根の各峰の間はV字形の窓をなして、左右は絶壁らしいから、峰頭をたどる尾根伝いはどうも不可能らしく想われた。百米も下をからめば通れぬ事はあるまい。とに角皇海山にも一時相当に登山者があったもので、その時期は明治の初年頃から二十五年頃までであったらしい。幸か不幸かこの山は、高さに於て遥に庚申山を凌駕《りょうが》しているが、これに匹敵する何らの奇窟怪岩をも有しないことが、信仰の衰えとともに終に登山者を惹《ひ》きつけぬ最大の原因となったものであろう。
連日の雨もようやく上ったらしいので、同行の藤島君とともに十一月十六日に東武線の浅草駅を出発した。相老《あいおい》で足尾線に乗り換え、原向《はらむこう》で下車したのは午後四時近くであった。渡良瀬《わたらせ》川が少し増水して橋が流れ、近道は通れないとのことに本道を歩いて原に着いた。自分らは五万分の一足尾図幅に、原から根利山に向って点線の路が記入してあるので、それを辿《たど》って先ず国境山脈に攀《よ》じ登り、南進して千九百五十七米の三角点をきわめ、引き返してその北の一峰から西に沢を下り、地図の道に出て砥沢に行き、翌日何処からか皇海山に登ろうという計画であった。それで原に着くと早速路傍の人を捉えてはこの道の状況を訊ねた。結果は例のごとく不得要領に終ったが、若い人たちは有ると言うた。どうせ明日になれば分ることだから心配もしない。
原には宿屋がないので、五、六町北のギリメキまで行って越中屋というに泊った。他にもなお越後屋、石和屋というのがある。いずれも木賃宿より少し上等という程度のものに過ぎない。
砥沢から来たという男と同室した。その話によると国境には切明《きりあけ》があって、六林班から半日で皇海へ往復される。上州峠の上州側には六林班の鉄索運転工場がある。今は其処の伐採中で、八林班の方は既に植林済みとなって、人は入っていないとのことであった。思ったより楽に登れそうなので喜んだ。寝しなに雨戸の隙間からのぞくと灰色の鱗雲《うろこぐも》が空一面に瀰漫《びまん》して、生ぬるい風が吹いて来る。あまり面白くない天気だ。
明《あ》くる十七日の朝六時四十分に出発した。空は曇って少し霞んでいる。原まで戻って尾根に登る道の入口を尋ね、畑の間を通り抜けて、山の側面をやや急に二百米も登ると尾根に出た。七時十分である。いい道だ、殊に尾根に出てからは一層よく、左右は唐松の植林である。靄が次第に深くなって附近の山がぼうと遠のいて来たと思うと雨がポツポツ落ちて来た。八時十分には千二百二十六米の三角点の下に着いた。このあたりは尾根が広く平で高原状を呈し、植林の道が縦横に通じている。もうこの附近から木の葉は皆落ちていた。小屋で二十分ほど休んで八時半に出発する。暫《しばら》く登って尾根に出ると右の方にも道が通じている。何気なくそれを辿って行くと、しだいに右に迂廻《うかい》して少しずつ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木暮 理太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング