が間違のない所であろうと思う。『郡村誌』の編纂されたのは、明治十二年十二月であるから、その頃利根郡ではコウガイヤマとかコウガイサンとか呼んだものであるらしい。明治廿一年の平川村の書上には、不幸にして此山の記事がない。が、追貝村の書上の水脈と題する欄に、
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栗原川ハ源ヲ皇開山間ニ発シ、千屈万曲、本村ノ西南ヲ流レ、大楊村トノ地勢ヲ両断シ、終ニ片品川ニ注入ス。
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また瀑布の欄に、
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猪子鼻《いごはな》滝、所在木村字猪子鼻。高三十丈、闊七間。水源、本村正東皇開山烏帽子岳ノ中央ヨリ発シ、片品川ニ入ル。
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という記事がある。猪子鼻は猪ノ鼻とも称し、地誌などにも猪ノ鼻の瀑は、上野第一の瀑布であるように記載してあるが、大町桂月氏の『関東の山水』を読むと、上州の山水の第七節に「土地の名勝をかき出せとその筋より達しのありし時、円覚は大瀑なれどその名が面白からず、猪の鼻の名の方が面白ければ、猪の鼻の名を円覚の実にかぶらせたるなり」とあるように、実はさほどの瀑でもないので、その上流にある円覚の瀑の方が遥《はるか》に大きいのである。土地の名勝をかき出せとその筋からの達しで書き出されたのが、ここに引用した『郡村誌』の記事で、この記事がもとになって多くの地理書に実際と相違した誤を伝えるようになったのである。それはとにかく滝の方は記載が不完全で、水源は判ってもそれが何川に在るのか不明である。けれども事実真の猪ノ鼻の滝は栗原川に懸っているし、猪ノ鼻と誤り伝えられた円覚の瀑は栗原川の上流不動沢に懸る瀑であるから、その水源に在る皇開山は笄山であることは疑なきことである。してみると明治廿一年頃は、笄山は皇開山とも書かれたものと見える。それが皇海山となったのは不思議でも何でもないが、スカイと呼ばれるようになったのはいつ頃からの事であるか知らないが、勿論最近の事であろうと思う。皇海が何かの原因でスカイと誤読されてそのまま通用するようになったものであろう。皇は「すめ、すめら」と読むから皇海をスカイと誤読することは有り得よう。座句は無論サクと読めるし、コウガイがクワウガイと漢字をあてられることなどは、地方には稀でない例である。
『上野国志』にはこの山を下野にて定顕房山というとある。附近には宿堂房山というのがあるから、定顕房もあり得べきはずであるが、今もかのような称呼が存しているや否やを知らない。『関東の山水』の中、野州の山水第二節庚申山の条に左の記事がある。
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なお二、三里ゆけば、大岳山あり、庚申山の繁昌せし頃、そこを奥院としたる由なるが、今は、ゆくものほとんど無しとの事也。社務所には、案内する者なし、こは、他日別に導者をやといて、さぐらむと思いぬ。
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この大岳山という名は自分もかつて聞いたことがあって、庚申山に連る尾根の最高点鋸山がそれであるように教えられたのであるが、それは誤であって、大岳山は皇海山に外ならぬのであった。皇海山の絶頂三角点の位置から少し東に下ると、高さ約七尺幅五、六寸と思われる黄銅製らしき剣が建ててあって、南面の中央に庚申二柱大神と朱で大書し、其下に「奉納 当山開祖 木林惟一」と記してあり、裏には明治二十六□七月二十一日参詣□沢山若林五十五人と楽書がしてあったのみで、奉納の年月日は書いてなかった。余事ながらこの木林惟一というのはどういう人であるかと、足尾におられた関口源三君に調べてもらったところ、東京の庚申講の先達《せんだつ》であって、この人が庚申山から皇海山に至る道を開き、そこを奥院とした。庚申山中に奥の院はあるが、これはつまり庚申山という一の山に対する奥の院の山という意味であるらしい。同時に松木沢からも盛に登ったものであるという。庚申山からの道は尾根伝いであったか、または一旦松木沢に下りてから登ったものか、松木沢からの道とともに今は全く荒廃して不明であるが、尾根の各峰に地蔵岳、薬師岳、白根山、蔵王山、熊野岳、剣《けん》ノ山、鋸山等の名称が附してあるから、あるいは尾根を通ったものかも知れぬ。連脈の最高点は鋸山で、上野国境に跨《またが》っている。そして庚申山よりは高い。其処《そこ》から展望した所では、尾根の各峰の間はV字形の窓をなして、左右は絶壁らしいから、峰頭をたどる尾根伝いはどうも不可能らしく想われた。百米も下をからめば通れぬ事はあるまい。とに角皇海山にも一時相当に登山者があったもので、その時期は明治の初年頃から二十五年頃までであったらしい。幸か不幸かこの山は、高さに於て遥に庚申山を凌駕《りょうが》しているが、これに匹敵する何らの奇窟怪岩をも有しないことが、信仰の衰えとともに終に登山者を惹《ひ》きつけぬ最大の原因
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