劍山の道案内を知れる者有之候えども秘伝として、漫《みだり》に人に伝えず、極めて高価の案内料を貪《むさぼ》りて、稀《まれ》に道案内をなせしことあるのみなりしが、今回の事にて、全くその株を奪われたる事になりしとか申《もうし》候、この記事が動機となりて、今年より多くの登山者を出すを得ば、幸《さいわい》これに過ぎずと存《ぞんじ》候」と言える書翰を附して編輯者まで送付せられたり、(その後辻本満丸氏も、この記事の謄写《とうしゃ》を、他より獲《え》て送付せられたり)聞く所によれば、『富山日報』のみならず、同県下の新聞にも大概出でたる由にて、劍岳を劍山と、新聞屋の無法書きは、白峰を白根、八ヶ岳を八ヶ峰などという筆法と同じく、おかしく感ぜらるれど、ともかくも登山史上特筆する価値あれば、左に全文を掲ぐ(K、K、)
余は三十六年頃より三角点測量に従事して居ますが、去《さる》四月二十四日東京を発して当県に来る事となりました、劍山に登らんと企《くわだ》てましたのは七月の二日で、先《ま》ず芦峅村に赴《おもむ》き人夫を雇《やと》おうと致しましたが、古来誰あって登ったという事のない危険山ですから、如何《いか》に高
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