平ヶ岳登攀記
高頭仁兵衛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)僭越《せんえつ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|魚沼《うおぬま》

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(例)※[#「巾+(穴かんむり/登)」、305−16]
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    平ヶ岳と鶴ヶ岳

 平ヶ岳の記事は従来刊行された地理書には絶無であるから、極めて僭越《せんえつ》でかつは大袈裟《おおげさ》のようではあるが、自分を主としたこの山の記録とでもいうような事と、自分がこの山に興味を持って、数回の失敗を重ねて、ようやく登攀を試みた筋道を一通り陳《の》べて見ようと思う。
 今から十五、六年前に、自分が小出《こいで》町へ遊びに行った時に、三|魚沼《うおぬま》は深山地であるが、何という山が一番に高いかと、郡役所の書記をしておられた小島という人に聞くと、先年参謀本部の役人が調査されて、鶴ヶ岳という山が第一だと申されたと咄《はな》してくれた、これが自分が鶴ヶ岳と呼ぶ山が、自分の住居している国に存在しているという事を知った初めであって、何《な》んとなく気持よく自分の耳に響いた、地図を見ると輯製二十万分一図の日光《にっこう》図幅にも、地質調査所の四十万分一予察図にも明記してあるが、いずれも標高を記してない、しかし三魚沼の最高峰とすると、吾《わ》が北越《ほくえつ》の山岳中でもかなり高いものとなるから、二、三年の中には是非《ぜひ》に登攀してみようと考えた。
 帰宅すると大急ぎで地質調査所の二十万分一詳図の日光図幅を出して見た、鶴ヶ岳の高さと登山口を物色《ぶっしょく》する意であった、ところがこの図には鶴ヶ岳の名が載せてない、予察図の鶴ヶ岳の辺と想《おも》わるる所に、平岳 2170 というのが記してある、自分は平岳と鶴ヶ岳というのは、同山異名であって、越後では鶴ヶ岳と呼んでいて、上州方面では平岳と称するのであるまいかと想うて、『越後名寄』、『新編会津風土記』、『日本地誌提要』、『大日本地名辞書』などを漁《あさ》って見たが、二山の記事は勿論のこと、いずれの山名さえも見出すことが出来なかったが、自分は心中ではこの二山を同山異名と臆断していた。
 その時から鶴ヶ岳は好い名称だと思った、日本で鶴の字を山岳名としてあるのには、九州で有名な鶴見山をはじめ、鶴峠、鶴巻山、鶴根山、鶴飼山、鶴ノ子山、鶴谷山、鶴城山、鶴掛山、鶴木山などがあるが、鶴ヶ岳の名が最も雄大で高潔で響きがよいように思う、平岳は名称としては感心もしないが、頂上が平坦であるから名づけられたらしく想像される、いずれにしても中越の傑物らしい気持がしてならない、自分はその折にはヒラダケと呼ぶのやら、またはタイラダケと称するのやも知らなかった。
 それから俗事に妨げられて二、三年を過ぎた、間もなく山岳会が設立された、自分は二度ほどこの山の登攀を思い立って、その登山口と想わるる北魚沼郡の湯谷《ゆのたに》村や、南魚沼郡の六日町方面や、上州利根郡の藤原村へ照会して見たが要領を得ない、明治四十一年の五月に、東京から清水峠を踰《こ》えて帰国した時に、藤原村の入口の湯檜曾《ゆびそ》温泉でいろいろ聞いて見たが、平岳だの鶴ヶ岳だのという山は聞いた事がないというている、その中に魚沼地方の人々が主となって銀山平(後に記す)の開墾《かいこん》事業を起されて、自分の知己であって隣村である高橋九郎氏が、高橋農場を建設された、農場の主任は白井又八というて自分と主従のような関係のあった者である、高橋氏と白井から銀山平方面の山岳に登るように、面会の時や便の折に毎々勧告される、そこで大平晟氏と銀山平へ見物に行くことになった、自分は平岳に登るのが主眼で、大平氏は燧岳《ひうちがたけ》に登って日光へ抜けらるる計画で、時間の都合で同行もしようと約束して、準備までしたが、出発の四、五日前になって自分は差支が出来て中止することとなった、已《や》むを得ぬから大平氏に依頼して、平岳に関係した一切の事を聞き合してもらうことにした、大平氏が帰宅されて御土産話しをされたので、はじめてこの山の大体の見当が付いた、称呼をヒラガタケといって鶴ヶ岳と別物であること、只見川の支流の北又川の支流である中又川を登って、高橋農場から二夜以上の野宿をして往復することが出来て、案内者は大平氏が駒ヶ岳(魚沼)の案内をさした桜井林治という者で、大湯温泉で容易に雇い入るる事が出来て、山の頂上は苗場山《なえばさん》式に広闊《こうかつ》であるということが分明になった、そうして大平氏は初めは平ヶ岳に趣味を持たなかったが、案内者の咄《はなし》を聞いてから登攀して見たくなったと附説された、自分はますますこの山に登りたく思っていたが、その翌年はふとしたことから登山時期を海外に過ごしてしまった、昨大正三年六月には、高橋氏にも依頼したり、白井へも発信して平ヶ岳の案内者を雇い入れてもらう事にしておいた、折しもその辺の五万分一仮製図が刊行されたから、雀躍《こおど》りせんばかりにして出発した、七月中旬に大湯《おおゆ》温泉の東栄舘に四、五日滞在して、林治を案内者として駒ヶ岳へ登った、それから林治を連れて銀山平の高橋農場へ着いた、白井が兼ねて依頼しておいた案内者の大久保某は、銀山平の某養蚕所へ雇われて来ているので、自分らが銀山平へ行ったのが四、五日遅れたのと、養蚕が少し平年より早いので、多忙の時期に向って来たので、案内が出来ぬということになった、白井が養蚕所へ談じて養蚕所では承諾してくれたが、大久保某の妻君が臨月なので、妻君の方から不服が出たとやらで、大久保某は案内が出来ぬことになって、折角《せっかく》白井が尽力してくれたのも画餅《がへい》となった、大久保某の言に拠《よ》ると、只見川の上流の白沢を登るが便利というので、この登路は林治は知らないのである、大久保某に断られてから白沢の登路を変更して、林治を案内として中又川を登ることに決定した、さていよいよ多年の宿望を果す日が来たかと、早朝に起きて見ると快晴である、急いで結束していざ出発となると、人夫が一人いなくなっている、元来湯谷村は行き詰りの山村であって、大湯と橡尾又《とちおまた》の二温泉があるから、他所から這入《はい》る人の過半は遊びに行くので、土地相応の贅沢《ぜいたく》はすることになる、随《したが》って土着の人には他所から来て少しでも知られている者からは、かかり合いに余徳があるものと考えているものが多い、銀山平開墾事業が起って、白井が高橋農場の主任となってからは、賃金を一定するとか、その他にいろいろ改良を試みたので、表面からは誰れも文句を出すものはないが、裏面では反感不平を抱いているものもある、その復讐《ふくしゅう》か否《いな》かそこまでは知らないが、人夫の一人の労働の割合に賃金が不足だというて、前夜白井に叱責《しっせき》された男が、今朝になって急に病気になったから帰えるといい出して、林治と今一人の人夫が様々に説諭したが、白井が自分の所へ来ている中に匆々《そうそう》帰村したことが分った、銀山平の養蚕をしない農家は、蕎麦が半作だといっている、白井も数人の雇人を監督して蕎麦蒔《そばまき》をしていた、銀山平は夏期に耕作や養蚕に行くか、または開墾事業に従事しているのであるから、農繁期となると殊《こと》に余分な人間が一人もいない、信州辺であると金銭問題で人夫を得ることも出来るが、銀山平では先ず絶対に不可能というべきであろう、白井は出来るだけ奔走尽力してくれたが、どうしても人夫がないから自身で出懸けるといい出した、こうなると白井の事情を知っているだけに、そうしてくれということが出来ない、自分は平ヶ岳を断念して直《ただち》に岩代《いわしろ》の檜枝岐《ひのえまた》へ行くことに決心した、その年の十月に大林区の役人が平ヶ岳へ調査に来ることになっていた、その時の人夫を今年から予約しておくから、来年(大正四年)は是非来てくれと白井がいうから、自分もその気になって農場の人夫を一人借りて、その日に檜枝岐へ越した、檜枝岐から会津の駒ヶ岳に登って、岩代の山岳に残雪の殆んど存在しないに驚いたが、同時に越後の駒ヶ岳、中ノ岳等に残雪のすこぶる多いのを嬉しく思った、平ヶ岳には残雪が頂上の処に少しく見えていた、それから尾瀬沼へ行って偶然に志村烏嶺氏と落合った、志村氏と燧岳に登って平ヶ岳の雄大なるに見惚《みほ》れた、前述の次第で平ヶ岳を思い込んでから失敗ばかり重ねていたが、今年(大正四年七月十八日)に平ヶ岳の絶巓《ぜってん》に立って鶴ヶ岳を望見することが出来た、以下その紀行を兼ねた案内記を書くことにする。
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附記、平ヶ岳はヒラダケとも呼ぶものあり、けだし山巓《さんてん》平坦なるより名を得たるものならん、この山は各種の地理書に漏《も》れたれば、明治の初年には知るものなかりしが如し、それより新式の鉄砲の渡来してより、越後、岩代、上野の猟夫が次第に深山に入り、この山の特殊の山容によりてかく呼びしにあらざるか、この山の地図に露《あらわ》れたるものは、明治二十一年刊行農商務省地質調査所の日光図幅なりとす、その一年前に刊行されたる、陸地測量部の輯製二十万分一図日光図幅には、中岳と記されたり、誤記か誤植かとも思わるれども、余が『日本山嶽誌』刊行の時に、群馬県統計書の山岳部を一覧せしに、魚沼の駒ヶ岳を上野の国界の如くに記されたるやに記憶せり、既に測量部または調査所の二十万分一図出でてより十年近くなりたるに、なお訂正せざる県庁の迂闊《うかつ》にも呆《あき》るれども、その県庁等より十年前に提出せし材料を輯製したるもの故、駒ヶ岳よりも高くしてかつ南に在《あ》る中ノ岳を、上野界に認めしやも知るべからず、同図の只見川以西の国界には西より数えて、荒沢岳、白沢岳、中岳、鶴ヶ岳とありて、鶴ヶ岳を北、南魚沼の郡界となし、鶴ヶ岳より北方に走れる山脈中に、中ノ岳、駒ヶ岳の諸山を描きたり、この図と同年に刊行されたる地質調査所の四十万分一予察図もまた鶴ヶ岳を以て郡界を北走せる山脈の起点とせり、以後鶴ヶ岳を境界とせるものすこぶる勢力あり、翌年に刊行されたる調査所の日光図幅には、只見川以西の国界を西より数えて、入岩岳 2008 平岳 2170 とありて、平岳を北、南魚沼郡界の東に記され、郡界|普近《ふきん》(会津図幅も参照せり)には鶴ヶ岳の山名を欠けり、こは殆んど現今の地図に斉《ひと》しきものにして、入岩岳とは鶴ヶ岳のことなり、鶴ヶ岳の称呼は越後方面の名なるが如く、檜枝岐の者は何岩(昨年の手帳を紛失して失念せり)と呼べり、けだし鶴ヶ岳は古生層と花崗岩地に噴出せる輝石安山岩にして、山勢附近の山岳に異なるを以ての故ならん、昨年刊行されたる測量部の五万分一図出でて、地形はじめて明瞭となり、平ヶ岳(平岳に作る)を八海山図幅に、鶴ヶ岳(影鶴山に作る)を藤原図幅に収めたり、地質調査所の二十万分一詳図は、いまだ全部の完結せざる故にや、地理学者の多くは同所の予察図に拠《よ》り、約三十年前に出版されたる日光図幅の正確なるものに採《と》らずして、『大日本地誌』の如きも平ヶ岳を省きて、鶴ヶ岳を載せたり、かくの如く鶴ヶ岳の名はかなりの勢力ありてまた好名称なれば、余は出所も知れざる新名称の影鶴山を避けて、鶴ヶ岳の名を用うるものなり。
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    平ヶ岳に登る

 平ヶ岳に関しては前章に於て長々と陳《の》べたが、まだ嫌焉《あきたら》ぬからこの章の前叙としてもう少し記する、この山は深山中の深山であって普通の道路から見えぬから、容易に瞻望《せんぼう》することが出来ないし、それが原因で世人に知られていないのである、また蓮華《れんげ》群峰や妙高山《みょうこうさん》や日光|白根《しらね》、男体山《なんたいさん》、赤城山、浅間山、富士山からも見えるには、見えているはずであるが群峰畳嶂の中にあるから、その独特の形状を認め
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