られることが出来ない、平ヶ岳の偉大なる山勢を知るには是非《ぜひ》とも燧岳からせねばならない、越後方面の荒沢岳や中ノ岳や兎岳もよいとは想うが、登攀したことがないから断言することは出来ない、順序としてこの山の所在を略説する必要がある、北越と上野の国境をほぼ南々西から北々東に向うて走っている山脈を、清水連嶺と呼んでいる、人によっては三国山脈とも称しているが、三国山は各所に同名があって混同の恐れもあるし、それに三国山や三国峠は往時は著名でもあったろうが、国道が清水峠に移転してからは清水峠を主要なるものと見るべきものと思うし、位置からいうても三国峠の南端にあるに反して清水峠はほぼ中央に位しているし、高さも清水峠の方が二百|米突《メートル》以上も抜いているから、自分は清水連嶺と呼ぶ方へ賛成するのである、この連嶺の主軸の東端をなしているのが平ヶ岳である、即ち新潟県越後国北魚沼郡湯之谷村と群馬県上野国利根郡水上村の境界をなしていて、その山足は西北は剣ヶ倉山から北に延びて、北と南魚沼の郡界をなしている兎岳と丹後山の間の一隆起の山脚まで行っていて、利根川の本流の水源はこの山と丹後山の間から発している、北は三条の山脈をなして、阿賀野川流域の只見川と中岐川と恋岐沢に截られている、その三条の山脈の西のものは中岐川の本流と、支流の二岐沢の間にあって北端が大沢山である、中のものは二岐沢と恋岐沢の間を延びて更に只見川と北又川の出合まで進んでいて、燧岳から壮大に見えるのがこの尾根とその東のものと重なっているので、いずれも蜿蜒《えんえん》として四里以上にわたっている、東のものは恋岐沢と只見川と白沢に断たれている、西南は上州の水長沢山をなしている、南は上野、越後の堺をなして白沢山となっている、以上を平ヶ岳の全部と見るべきであろう、越後方面の白沢と即ち中岐川の支流(灰又山の南のもの)と、上野方面の利根川の本流とその支流の水長沢の南の一源とで平ヶ岳全部を周《めぐ》っているのである、鶴ヶ岳と白沢山の間に大白沢山と地図に記してあるが、これは平ヶ岳の尾根が尽《つ》きた処であって山というよりは平地と見るべきであろう、平ヶ岳の全部は花崗岩であるから大白沢山も花崗で無論平ヶ岳に属するものであって、その東から鶴ヶ岳に属する火山岩となるらしい。
 東京の上野駅の九時四十分発の夜行の急行列車に乗ると、翌朝の九時半に来迎寺停車場に着する、自分らが二十幾年前に片貝の小学校に通学していた頃には、一尺ばかりの作場道であって人家などなかったのが、今は三間余の県道が通じて五十軒ばかりの人家が出来た、新来迎寺駅(魚沼鉄道)の軽便鉄道に搭じて九時三十四分に発車すると、十時十八分に小千谷《おぢや》駅に達する、そこから人力車または馬車で約五里を行くと小出《こいで》町である、小出から爪先上りとなって約三里を行くと、日本第一ラジウム温泉の称ある北魚沼郡湯谷村|橡尾又《とちおまた》温泉に着する、自在舘という家がよいようである、小出から人力車を通ずるが二人引きでないと、時々歩行させられてその効が少ない、温泉は温度が低いが往昔から著名なものである、小出から橡尾又に着く少し前に右に折れて行くと大湯温泉がある、橡尾又まで八町ばかりの距離である、大湯温泉は温度もかなりであるが、設備は橡尾又よりも下等である、東栄舘というのがよい、銀山平へ行く人夫や荷物は、悉皆この東栄舘で世話することになっている、だから高橋農場へ通信するにはこの家に宛《あ》てるのである、橡尾又は温泉宿の外には人家がないから、大湯が湯谷村の奥底の部落である、大湯も橡尾又も名勝も旧跡もないから遊び場所としては、くだらない処である。
 自分は本年の七月十四日に新来迎寺の一番下りに乗って、小千谷から馬車を雇って、小出の須田という旅館で中食した、兼ねて白井から依頼しておいたと見えて、下折立の区長の某が訪問して来て、昨年の十月に大林区の役人に同行した人夫を、明日中に高橋農場まで遣すという意を告げて去った、須田でゆっくりしていたので、夕刻に橡尾又の自在舘へ投宿した、荷物と人夫の都合があるので、自分の従者の渡辺権一を大湯の東栄舘に宿させた、夜になると渡辺が来て、東栄舘の主人が弟を同行してくれと依頼するが如何しようと聞く、承知の旨《むね》を回答した、翌朝の六時に仕度が出来て十分に出立した。
 橡尾又温泉から佐梨川の支流の橋を渡ると、一方登りとなって二里十七町で枝折峠の嶺上に達する、その間には初終駒ヶ岳の白皚々《はくがいがい》たる残雪を有している雄姿を仰いで、すこぶる壮快の感じがする、道は楽ではあるが樹木の影がないから、日中に登るを避けてなるべく早朝に嶺上に達するがよい、温泉から二時間半ばかり費した、ここまでは信濃川の流域であるが、峠から小倉山を経て駒ヶ岳に通じている山脈が分水嶺となって、前面は銀山平即ち阿賀野川の流域となるのである、この峠は大明神峠とも呼ばれている、尾瀬大(中?)納言が讒者《ざんしゃ》のために流罪《るざい》となって、此処《ここ》を過ぎられた時に、大明神が現出されて路《みち》に枝折をされたという伝説がある、この峠を右に登ると五時間ばかりで駒ヶ岳の八合目ともいうべき処のアマ池に出る、それから約一時間四十分で駒ヶ岳の絶巓に至ることが出来る。
 ここで簡単に銀山平の説明をしておく、越後の南と北の魚沼郡の境界で、中ノ岳の南に兎岳というのがある、兎岳の尾根が東に延びて灰ノ又山となって、それから北に行って荒沢岳となって、更に東に延びている、この山脈と中ノ岳、駒ヶ岳の山脈の間を流れているのが、只見川の支流の北又川である、枝折峠から北又川に下ると、川の南方は処々に平地があって、自然の桑樹があるから昔しから養蚕期になると、この山間で養蚕をしていたらしい、北又川が只見川と出合うてから、只見川の上流に行くと、川の西方にも平地が処々にある、それが大略五、六里以上も続いている、その平地を総称して銀山平と呼ぶのである、会津藩の頃には只見川の上流で銀鉱を採掘してかなり盛んであったらしい、近年にこの平の開墾事業が起って、各所に人家が出来たが、日本でも有数な越後平野で成長した人から見ると、平どころの話しでなく、てんで人の棲《す》む処《ところ》でないらしく考えられるので、移民が尠《すく》ないらしい、甲州の野呂川谷などから見ると非常に美事《みごと》な処である、会津方面の大平野を知らない山間の貧民を優待して開墾させるに限ると思う、自分は平野地で生活が出来なくなったら、この谷へ引込んで、養蚕で米代を取って、蕎麦や粟の岡物で補うて、小出方面で蕨《わらび》や蕗《ふき》がなくなる頃に、蕨や蕗がこの谷では盛んであるから、それを小出の町へ売出したりする気である、まだ棲めばいくらも収入を見出す事が出来ると思う、呉服屋が来るではなし、菓子屋が来るではないから節倹は思うままに出来る、汽車が通って石炭臭い処に蠢々《しゅんしゅん》していないで、こんな処で暢気《のんき》に生活しようとする哲人が農家に尠ないものと見える、村会議員や郡会議員になって、愚にも付かない理屈を並べている者から見ると、どんなに気が利《き》いていて気楽で国益になるか知れない、大気焔はこの位で切り上げて、舞台を平ヶ岳の紀行にぶん廻す、実際この谷あってはじめて平ヶ岳が雄大で、また意味の深いものらしくなるように想われる。
 枝折峠の嶺上を去ると荒沢岳が前面に現われて来る、路は一方下りとなって駒と中ノ岳が右に残雪を光らしている、峠を下り尽くすと銀山平の地となるのである、嶺上から一里五町で北又川に架した橋がある、此処《ここ》を石滝《いしだき》といって銀山平第一の勝地である、元来滝とは奔湍《ほんたん》の意であって瀑布の義がない、ここは奔湍であって瀑布があるのでないから、よく下名したものというべきである、それから平坦地となって所々に人家と耕地がある、石滝から二里ばかりで北又川の一大支流の中又川の出合《であい》となる、中又川の橋を渡ってなお北又川を左に見て行くと、一里弱でこの川が只見川に逢合する、北又川に別れて右折して只見川に沿うて進むこと、三十町弱で浪拝《なみおがみ》の高橋農場に着する、また銀山平の一勝地であって、尾瀬大納言が通行された時に仏陀の奇蹟《きせき》のあった所と伝えられている、標高が約七百米突であって、枝折峠の嶺上から約四時間を要する、高橋農場から二、三町行くと只見川の河傍に温泉が湧出している、銀山平の人々は只見川をアガ川と呼ぶのである。
 自分が銀山平へ着いたのは十五日の午後二時であった、白井はこれから岩魚《いわな》を釣りながら途中まで出迎う意でいたが、馬鹿に早く来たものだと驚いていた、間もなく檜枝岐から人夫が来た、自分はなるたけ同じ道を通ることを避けるのであるから、今度は平ヶ岳を下って只見川の上流から尾瀬沼へ抜ける考えでいた、そこで人夫の経済上からとその路に詳《くわ》しい者を、檜枝岐から雇うことにしてあったのである、ところが白井が依頼して遣《や》った意味が疏通しなかったと見えて、檜枝岐から来た人夫は平ヶ岳で案外時日がかかるので、蕎麦蒔きに遅れるからと断って帰った、白井が百方苦慮してくれたが、只見川から尾瀬沼に行く路に詳しい者がない、人夫の中の星定吉が一度通行した事があるというのを頼みにして、十六日の午前七時にいよいよ平ヶ岳に向うて出発した。
 高橋農場から只見川に沿うて二十町ばかり行くと、往昔銀鉱採掘時代の遺跡である所の、墓場や採掘の場所跡などがある、浪拝と墓場の間には恋岐沢が平ヶ岳から来て只見川に注いでいる、平ヶ岳からこの沢に下ることは出来るが、この沢から平ヶ岳に登ることは不可能であると聞いた、また二十町ばかり行くと大津又川が東から只見川に這入《はい》る、ここから左折して大津又川を溯《さかのぼ》って行くと、その日に会津の檜枝岐に達することが出来て、昨年に自分がその路を通行したのであった、しかし檜枝岐から郵便物を投函すると、九日以上の日数を費さないと銀山平へ到着しないそうである、なお只見川に沿うて上ると灰瀑布がある、只見川の本流が瀑布をなしていて、午後になって日光が瀑布を射るようになると、瀑布の下の深淵から鱒魚が瀑布に向って飛び上る、それが容易に瀑布の上に登ることが出来ない、無数の鱒魚が滔々《とうとう》として物凄《ものすご》く山谷に響きわたって、倒《さか》さに銀河を崩すに似ている飛泉に、碧澗から白刃《はくじん》を擲《なげう》つように溌溂《はつらつ》として躍り狂うのであるから、鱒魚の豊富な年ほどそれだけ一層の壮観であるそうである、鱒魚はかように瀑布と悪戦苦闘を続けて労《つか》れに憊《つか》れて、到底瀑布を登ることが出来ぬと断念して、他に上るべき水路を求めている、人間の猿智慧はこんな山間でも悪用されていて、瀑布の下から瀑布の上に向うて迂回した水勢の緩慢《かんまん》な人工の水路が作られてある、労れた鱒魚はその水路を陸続として登って行く、それを人間が見ていて下の入口を塞《ふさ》いで、上から手網で容易に捕獲するのである、自分がこの瀑布を観《み》た折は午前九時であって、鱒魚は看《み》ることが出来なかったが、瀑布だけでもかなりの壮観であった、鱒魚を捕える漁夫小舎にいた老人が、中食の菜にというので焼いていた鱒魚の一片を自分に贈ってくれた、瀑布から少しく行くとヒルバに達した、これが銀山平の最終の人家である、幾分か時刻は早いのであるがここで中食した、十一時十分にヒルバを出発して山毛欅《ぶな》の大闊葉樹林の中に通じている、岩魚釣りの通路を辿《たど》って行くことになる、県の事業として椎茸《しいたけ》を培養している所がある、熊笹を分けたり小渓を登ったりして二時四十分に只見川に降った、ここをキンセイと呼んでいる、ここから只見川を上って三時十五分に白沢の出合に着いた、此処で荷物を減ずるために米の袋を、降雨や増水があっても流失や湿らぬ用意して置いて行った、只見川に別れて白沢を溯る、徒渉《としょう》というよりは全く川を蹈むのである、約一時間半でその日の露営地と予定してい
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