た不動瀑布の上に来た、時計が五時半を指していた、此処は樹木も多いし川にも近いしそれ以上には適当の場所がないから、平ヶ岳登攀には非常な重要な地点である、ここまでは岩魚釣りが来る、不動瀑布は殷々《いんいん》として遠雷のような音をたてているが、断崖|峭壁《しょうへき》で囲繞《いにょう》されているのでその本体を見ることが出来ぬ。
 翌十七日の七時に野営地を出発して白沢登りを継続した、白沢は水量がすこぶる多くて、また山側の崩壊が稀《まれ》で洪水も少ないと見えて、岩石に稜角がなくて水苔が生じていて、粗面質の岩石でも往々に足を辷《すべ》らして、危険千万であるから歩行に非常の注意を要する、だから一朝豪雨に際会して水量が増した時には、到底この沢を行くことが出来なくなって、他に別路がある訳でもないから、野営地に滞在して、減水を待たなければならない、白沢を溯ることが一時間で平岳沢の出合に達する、ここから川を去って白沢と平岳沢の間に出ている尾根を登るのである、頂上までは飲料水も残雪も平坦地もないから、途中で日が没して雨でも降って来るとすこぶる惨憺《さんたん》を極めねばならない、八時半に出合の処を出発して闊葉樹林の下に繁茂屈曲している石楠花《しゃくなげ》や、熊笹を蹈み分けて、馬の背のような尾根を直《ひ》た上りに登って行く、登るに随うて大樹が次第に稀疎となって、熊笹がだんだん勢を逞《たくましゅ》うして来る、案内の人夫連は間断なく熊笹や灌木を切り明けて進む、蹇々《けんけん》して歩行の困難のことは筆紙にはとても尽し難い、時々木の間から平ヶ岳の雄大な絶頂が右の方に露われる、暫《しばら》くで尾根の頂上に出て左の方に燧岳が聳立《しょうりつ》してはいるが、この辺は熊笹や灌木が密生している極点であって、簾と格子を越して美人を望むの観がある、何分にも熊笹が八、九尺以上もあって群立しているから、三間も距《へだた》ると音ばっかりしていて人影を見ることが出来ない、間もなく樹竹の絶えた小平坦に出た、陸地測量部の三角点の礎石があった、ここは観測の折に樹竹を刈り取ったらしい、時刻は午後の三時である、また熊笹や密林の中を潜ったり蹈み分けたりして行くと、七時に熊笹と樹木が全く絶えた芝生となって、これに点綴《てんてい》している植物や幾多の小池や残雪やが高山性となって、眼界も俄《にわか》に開けて※[#「巾+(穴かんむり/登)」、305−16]画《とうが》的の大観が現出して来た、ここはもう平ヶ岳の一頂であって越後と上野を限っている山稜である、小池の傍に野営した。
 翌十八日の五時に日輪が出た、六時十分に絶頂を指して登りはじめた、平坦な芝生に多くは小池があって、矮小《わいしょう》な灌木や熊笹の繁茂している所がままあるが、展望を妨げるようなことは少しもない、間もなく偃月形をなしているかなりの大残雪を蹈んで、七時五分に絶巓の三角点址に達した、絶巓は渺々《びょうびょう》たる曠野《こうや》であって一帯の芝生に、小池が所々にあって無数の南京小桜《なんきんこざくら》が池を廻って※[#「女+島」の「山」に代えて「衣」、306−6]娜《じょうだ》として可憐《かれん》を極めている、この曠野は三角点附近を最高点としていて、緩慢《かんまん》な傾斜をなして北方に低下しているが、絶頂に特に隆起した地点がないから、曠野の全部を一望の下に俯瞰《ふかん》することが出来ないで遺憾《いかん》というべきである、三角点址の眺望は非常に宏闊であって、南西に当って近くの鶴ヶ岳が金字形をなしている、その山貌と鳶色の山色より察すると火山岩である、鶴ヶ岳の左には馬鞍状の燧岳がある、鶴ヶ岳の右には尖端が天を衝《つ》いている日光白根がある、赤城と白根の間に男体山が見える、人夫の一人は男体山を富士山だかと三、四回も自分に質問した、浅間山が盛《さかん》に噴煙している、頸城《くびき》の平野を隔てて妙高《みょうこう》山が屹立《きつりつ》していて、その上方に日本アルプスの北部が杳々《ようよう》として最後の背景をなしている、また兎、中、駒、八海、荒沢、大鳥岳の連嶺は数十条の残雪を有していて、蒲原《かんばら》の平野も日本海も脚下に開展している、快晴の日には佐渡も富土山も認めることが出来るそうである、この山上の大観は吾《わ》が北越の諸山に比較すると、飯豊《いいで》山の雄渾《ゆうこん》豪壮に対しては少しく遜色があるが、有名な苗場山とは正に伯仲の間にあるものであろう、そうして苗場山を人工入神の作と見たならば、平ヶ岳は神作の拙なるものではあるまいか、絶頂から北へ向って行くと盃石という岩があると聞いたが、この日は不動瀑布上の野宿所まで戻るのであるのと、白沢を渉るときに足を少しく損じたので、帰途を急ぐ必要上から充分に山上を遊ぶことが出来ないので、八時に絶巓を辞して野宿所へ降った、絶頂の植物は大略チングルマ、大桜草、白山一華《はくさんいちげ》、南京小桜などで、越後と岩代の駒ヶ岳、燧岳とやや同様の観がある、九時に野宿所を出発して三時十五分に平岳沢と白沢の出合に下った、五時五十分に不動瀑布上の野営地に着いた、もう豪雨が来ても大丈夫だと一同が安心してその夜は熟睡したが、自分は多年の宿望を果したから最も愉快に安眠に耽《ふけ》った。
 十九日は六時十五分に出発して、七時半に只見川の出合に達した、ここで荷物の分配や中食の用意などして、九時十五分に只見川を溯りはじめた、一時間弱で右から沢が落ちている、トクサと呼ぶ沢であって檜枝岐から岩魚釣りが来ているそうである、此処《ここ》から檜枝岐までは五里の間道だと称している、十一時に右からタカイシ沢の這入るのを見た、一時に三十滝という奔湍と瀑布を兼ねたような処に来る、三十滝は通行することが出来ぬから、岩壁を登ってその上流に下るとシラツキ沢が左から這入《はいっ》ている、只見川の本流は深緑色をなして緩く流れているが、シラツキ沢は岩石が悉《ことごと》く真白になっていて、淡碧色の水が勢い強く落ちて来る、水を嘗《な》めて見ると少し渋味がある、この沢は降雨の際には渓水がニゴシ(米を洗いたる水)のようになるそうである、燧岳図幅に記してある深沢というのがこの沢らしい、シラツキ沢を少しく登ると木ノ葉石があるというので、人夫が取りに行って来た、二時半に此処を出発して只見川の断岸を登って、一時間ばかり行って只見川を徒渉して西岸を辿った、暫《しばら》く進むと右からマツクラという沢が来ている、マツクラ沢の対岸の岩側が※[#「糸+炎」、第3水準1−90−10]々《たんたん》筋のように見えるから鎧《よろい》グラ(岩の転か)と呼ばれてある、鎧グラの上方を登るのであるが、これからは人夫が詳細な案内を知らない、登ってから水がないと困るから、まだ四時ではあるが此処に野営することにした、人夫が十尾ばかりの岩魚を釣って来て、今夜は岩魚の寝入っているのを捕えて来るというて、頻《しき》りに面桶を入れていた網などを利用して、手網のようなものを製作している、自分は岩魚の寝入っているということを生来はじめて聞いたから、可笑《おか》しくなって吹き出したが彼らは真面目も大真面目でいる、夜になると提燈《ちょうちん》を下げて自分にも同行して見ぬかと勧《すす》めたが、岩魚の寝入っているのも見物したいが夜中に巉岩《ざんがん》を蹈む勇気もなくて行かなかった、小一時間も過ぎると人夫が帰えって来た、明日の仕度もあるから喰うだけ獲て来たというて、四十尾ほど持って来た、なるほど岩魚も寝入るものと見える。
 二十日は六時五分に出立した、直に只見川を渉って対岸の岩壁を攀《よ》じるのである、この辺の只見川は水量が多くて、自分のようなコンパスの短いものは殆んど股まで達しる、山側を躋《のぼ》り尽すと高原的の処となるが、闊葉樹林の下に例の熊笹が繁茂していて、展望もなければ歩行も決して楽ではない、山毛欅の大樹に通行者の姓名や時日が記してあるのを栞《しおり》として、熊笹を分けたり蹈んだりして進んで行く、自分は友人の保阪定三郎氏の記名がある樹木を視《み》てすこぶる可懐《なつか》しく感じた、この辺は総て燧岳の裾野である、只見川の本流が懸水をなしている三丈瀑布を瞰下することが出来る、四時半に熊笹が全く絶えて一大曠野に出た、渺々とした茅の中に幾万の黄菅《きすげ》が咲いていて、美観が譬《たと》うるに物なしである、間もなく一小廃屋の前に出た、自分は太早計《だいそうけい》にもここを上州の尾瀬平と思い込んだが、それにしても只見川を踰《こ》えたはずがない、小一時間もうろついてようよう見当が附いた、マツクラから二里ばかり行くと魚釣りの小舎があると聞いていたが、自分も人夫も二里と呼ばれている処を、まさかに朝の六時から十時間もかかって其処《そこ》へ出たとは、最初の中《うち》はどうしても考えられなかった、それから只見川へ出て川を溯って行くと、左の山側に登る路があってそこを登った時には、真暗になって足下も見えなくなって来た、その夜はここに野営して水に遠いので一飯を抜くことにして睡《ね》むった。
 二十一日は五時二十分に出発した、路は明瞭な細径となって七時に峠を下った、ここで昨日の夜食と兼帯な朝飯をして九時五十分にこの地を離れた、間もなく尾瀬沼へ出て燧岳の登山口を過ぎて十時五十分に長蔵小屋に着いた、昨年の小屋は岩代の地籍にあったが、本年は上野の地籍に山中としては贅沢過ぎるほどな、旅店風の大家を新築している最中であった、自分はそこから日光の湯本へ向ったが平ヶ岳の紀行はこれで結末とする。
 平ヶ岳に登るには初冬の頃がよいと思う、白沢の水量も減じていようし、熊笹や雑木の勢いが夏期のように旺盛ではないし、人夫も比較的に閑暇であるから便利だというのである、余分の日子《にっし》と防寒具の用意をして初冬に登るべきである。
 人夫は本年四人を連れていっているから、これだけ案内者を養成した訳である、下折立の星甚太郎、この男は二回登攀している訳である、銀山平の星定吉、この男は熊狩をしているから谷や沢の方は詳しい、以上の二人の中の一人がいれば案内は出来る、大湯温泉東栄舘の桜井次郎は弱年であるから保証はしにくい、藪神村の桜井兼吉は遠方だから予定することは出来まい、序《ついで》にいうが人夫の賃金はこんなに多忙の中でも一日七十五銭であった、しかし閑暇の時だというて安いかどうかは談判して見ないから知らない。
 博文舘発刊の『太陽』第一年第一号に利根川の水源探検記が載っている、自分は多分平ヶ岳に登ったのではあるまいかと考えていたが、利根川の水源は丹後山の東から出ているから、平ヶ岳の絶頂からは尾根伝いに行ったならば、三里以上もあるかもしれない、探検記の著者は山名を明記していないから、勿論臆断ではあるが八海山図幅の無名の 1592 か、丹後山の辺へでも登ったものらしい、さすれば陸地測量部と大林区の役人を除いては、自分が最初(土人は省く)の登攀者だと確信している、いわんや写真や記文は下手ながらこれが嚆矢《こうし》であると考えている。
 これが立山の劍か赤石山ででもあると、非常に天狗になれるかも知らぬが、二千百米突ではそんなに大袈裟にもいわれまい、しかし自分個人としては山数はまだ碌々登って居ぬが、十三の時から三十九の今日までに、自分単独の力で人がまだ行っていない山へ登躋《とうせい》して、それに自分の記文と写真を載せたということは、生来はじめてであるから法螺《ほら》でも自慢でもないが、自分は衷心から珍らしいような嬉しいような感じがするのである、自分としては以後にこんなような事のあるべきはずがないから、これが最初の最後であることは申すまでもない、日本アルプス地方では熊笹の繁茂を見ることが出来ないようであるから、稀にはこんな処へも来て見て戴きたいのである。



底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 一〇の三」
   1916(大正5)年5月
初出:「山岳 一〇の
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