に志村烏嶺氏と落合った、志村氏と燧岳に登って平ヶ岳の雄大なるに見惚《みほ》れた、前述の次第で平ヶ岳を思い込んでから失敗ばかり重ねていたが、今年(大正四年七月十八日)に平ヶ岳の絶巓《ぜってん》に立って鶴ヶ岳を望見することが出来た、以下その紀行を兼ねた案内記を書くことにする。
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附記、平ヶ岳はヒラダケとも呼ぶものあり、けだし山巓《さんてん》平坦なるより名を得たるものならん、この山は各種の地理書に漏《も》れたれば、明治の初年には知るものなかりしが如し、それより新式の鉄砲の渡来してより、越後、岩代、上野の猟夫が次第に深山に入り、この山の特殊の山容によりてかく呼びしにあらざるか、この山の地図に露《あらわ》れたるものは、明治二十一年刊行農商務省地質調査所の日光図幅なりとす、その一年前に刊行されたる、陸地測量部の輯製二十万分一図日光図幅には、中岳と記されたり、誤記か誤植かとも思わるれども、余が『日本山嶽誌』刊行の時に、群馬県統計書の山岳部を一覧せしに、魚沼の駒ヶ岳を上野の国界の如くに記されたるやに記憶せり、既に測量部または調査所の二十万分一図出でてより十年近くなりたるに、なお訂
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