蕎麦が半作だといっている、白井も数人の雇人を監督して蕎麦蒔《そばまき》をしていた、銀山平は夏期に耕作や養蚕に行くか、または開墾事業に従事しているのであるから、農繁期となると殊《こと》に余分な人間が一人もいない、信州辺であると金銭問題で人夫を得ることも出来るが、銀山平では先ず絶対に不可能というべきであろう、白井は出来るだけ奔走尽力してくれたが、どうしても人夫がないから自身で出懸けるといい出した、こうなると白井の事情を知っているだけに、そうしてくれということが出来ない、自分は平ヶ岳を断念して直《ただち》に岩代《いわしろ》の檜枝岐《ひのえまた》へ行くことに決心した、その年の十月に大林区の役人が平ヶ岳へ調査に来ることになっていた、その時の人夫を今年から予約しておくから、来年(大正四年)は是非来てくれと白井がいうから、自分もその気になって農場の人夫を一人借りて、その日に檜枝岐へ越した、檜枝岐から会津の駒ヶ岳に登って、岩代の山岳に残雪の殆んど存在しないに驚いたが、同時に越後の駒ヶ岳、中ノ岳等に残雪のすこぶる多いのを嬉しく思った、平ヶ岳には残雪が頂上の処に少しく見えていた、それから尾瀬沼へ行って偶然に志村烏嶺氏と落合った、志村氏と燧岳に登って平ヶ岳の雄大なるに見惚《みほ》れた、前述の次第で平ヶ岳を思い込んでから失敗ばかり重ねていたが、今年(大正四年七月十八日)に平ヶ岳の絶巓《ぜってん》に立って鶴ヶ岳を望見することが出来た、以下その紀行を兼ねた案内記を書くことにする。
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附記、平ヶ岳はヒラダケとも呼ぶものあり、けだし山巓《さんてん》平坦なるより名を得たるものならん、この山は各種の地理書に漏《も》れたれば、明治の初年には知るものなかりしが如し、それより新式の鉄砲の渡来してより、越後、岩代、上野の猟夫が次第に深山に入り、この山の特殊の山容によりてかく呼びしにあらざるか、この山の地図に露《あらわ》れたるものは、明治二十一年刊行農商務省地質調査所の日光図幅なりとす、その一年前に刊行されたる、陸地測量部の輯製二十万分一図日光図幅には、中岳と記されたり、誤記か誤植かとも思わるれども、余が『日本山嶽誌』刊行の時に、群馬県統計書の山岳部を一覧せしに、魚沼の駒ヶ岳を上野の国界の如くに記されたるやに記憶せり、既に測量部または調査所の二十万分一図出でてより十年近くなりたるに、なお訂
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