。しかし前とこれも同じ様に、取あえず、と認められてあった。この四字はいつも妙に白っちゃけていて、芳香に誘われて頼子に親しみを感じていく久能の心にひやりと冷たい氷をあてる、いわば防腐剤であった。しかし久能はその封筒を、父の遺した螺鈿の文筥に大事げにおさめた。
 久能が菊崎という同級の中で一番の真面目で通っている男の処へノートを返しに行くと驚ろいたことにはもう論文を自分でタイプしていて、久能さん、僕は昨夜――省の――局長を訪ねて来ましたよ、というので、久能は驚歎して、僕なんかまだ論文も書き始めないし、未だ就職運動どころじゃない、何しろ今小説を書いてるところですからねと答えると、菊崎は、困りますよ、そんな心掛じゃと白い歯で笑った。久能は、みていろ、俺だって、いい小説を書いて学校なんか蹴とばしてやるぞと意気込んで帰って来、二時近くまで、ペンを走らし、漸く書き終って読み返し出すと、消しや書き入れで支離滅裂になっているためか、書いた事が少しも心にふれて来ないだけでなく、何となく重苦しい気持なので、熱を計ると、いつの間にか高い熱が出ていた。いつもの扁桃腺だと高を括っていると、翌朝は愈々苦しくなり、肺
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