はないので、一番愛惜して後に残っていた詩人達の本を手離した瞬間は苦しかったが、青江のいる方へ歩いていく足はひどく軽かった。久能がアパアトの曲り迂った楷段を登っていって青江の部屋の扉を押すと鍵が降りていた。今度出ている会社は随分退けが遅いのだなと、彼は懐から鍵を取り出した。その鍵を彼は何度、河の中へ捨てようか旧い記憶を一切捨てて明るい気分に帰ろうかと決心しかけても、病んでいるのが幽鬱であればある程、青江が恋しくなって、隠しの中にしっかと蔵っていた。扉を開くと、青江がいるような香が狭い部屋に立ち罩めていた。すると久能は、自分が勉強しているところへ、青江がやって来て、眉をひそめさせたのもこれだったと思い出し、着物などに触れて見、胸が痛くなり、疑いを忘れた微笑が浮んで、苦しまない時があったから、苦しい時が来たのだ。やがてまた明るい日が来るだろうと、もう時というものだけに頭を垂れていた。暗くなっていく部屋にしょんぼりと坐っていると、ふっと故郷にいる母の痩せた顔が出て来、また、最近手にした母の手紙の中の、卒業の上は小説などと申さず、何にても真面目な職につかれ、よき妻を娶られたく、という文句を思い出
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