の男だった。本当の嘘も云えない代りに、自分の言葉を最後まで守り通す意志もなかった。併し青江は言葉を信じなかった。相手を傷つけることでもいわないではいられない久能がそのときいった言葉は、結婚しないということだった。青江はその様な言葉の繊弱さを見抜いていて、未知な怖ろしさの中にも、晴れやかさの籠った声で、あたし大垣へ帰らないわ、ここの家にもいられないけど、もう決心がついているのよ、といって、秋の終りの自然の忘涼にくらべ、久能と青江は真夏の野の草いきれのなかにいた。翌年二月に父親が青江を迎えに上京して来る前日、久能にだけ行先を教えて、彼女は姿をかくした。久能は口でははっきり結婚を拒否していたが、遂にはそうせずにはいられなくなりそうだと感じ始めていた。
春になっていた。併し久能には桜も、新緑もなかった。青空もなかった。彼は二月程前から忌わしい病気に罹っていた。久能はいつものように、もう夕暮に間近い街の前後を窺ってから、その白色の大きな病院にこそこそと這入っていった。逃げるように廊下を小走りして階段を登りかけると、降りて来た青年と頭を見合せ、あ、と思わず叫んで、二人とも立ち竦んだ。相手の男もま
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