。しかし前とこれも同じ様に、取あえず、と認められてあった。この四字はいつも妙に白っちゃけていて、芳香に誘われて頼子に親しみを感じていく久能の心にひやりと冷たい氷をあてる、いわば防腐剤であった。しかし久能はその封筒を、父の遺した螺鈿の文筥に大事げにおさめた。
 久能が菊崎という同級の中で一番の真面目で通っている男の処へノートを返しに行くと驚ろいたことにはもう論文を自分でタイプしていて、久能さん、僕は昨夜――省の――局長を訪ねて来ましたよ、というので、久能は驚歎して、僕なんかまだ論文も書き始めないし、未だ就職運動どころじゃない、何しろ今小説を書いてるところですからねと答えると、菊崎は、困りますよ、そんな心掛じゃと白い歯で笑った。久能は、みていろ、俺だって、いい小説を書いて学校なんか蹴とばしてやるぞと意気込んで帰って来、二時近くまで、ペンを走らし、漸く書き終って読み返し出すと、消しや書き入れで支離滅裂になっているためか、書いた事が少しも心にふれて来ないだけでなく、何となく重苦しい気持なので、熱を計ると、いつの間にか高い熱が出ていた。いつもの扁桃腺だと高を括っていると、翌朝は愈々苦しくなり、肺炎を惹き起していて、熱が四十度を越えると、原稿、原稿とうわ[#「うわ」に傍点]言をいい初めていた。久能が意識を戻すと、青江が傍にいて胸に氷嚢を当てていた。久能はもう先頃の争そいを綺麗に忘れて、青江のするままに、薬を飲んだり、吸入したりした。一体に極端なほど病気に弱い久能はもうすっかり子供になっていて、母ちゃん、ここにいて、と病気の時は一刻も母を離さず、母の手を握っていたように、青江を離さず、青江の手をつかまえていた。そして十日程青江は会社を休んで久能の病床にいた。そして楽しげだった。そこへ雑誌が出来て来た。恢復期の奇妙に新鮮になっている久能の眼に初めて活字になった自分の名が、生きて踊っている小動物に見えた。頼子の随筆も載っていた。リラなのね、と青江はその終りの部分を突ついていった。その文章は昔から今日までのフランスの貴婦人達が愛した香料を考証したもので最後に、自分はリラの香を愛すると書かれていた。久能は青江に文筥から頼子の手紙を出させたが、感覚を失ったためなのかもうその匂は消えていた。青江が、そのお嬢さん、どんな人? と委しく聞き出すのを、久能は、幾日も看護されていた心の弱さで、青江の機嫌を取るために、頼子には全く無関心をよそおい、青江の額に手を触れ、髪を撫でるのだった。併し漠然と、こうしていたら、病床から起き出したとき、青江に冷淡さを示すのは随分困難になりそうだと不安になった。それでも母か、奴隷としての、青江のひたむきさに久能は惹きつけられ始めていた。
 久能はまた学校に通い出した。久能達の作品は悉く不評、というより何の評判も聞えなかった。旅行から二三日前に帰って研究室に遊びに来た龍野氏に偶然、出遇うと、龍野氏は約束を果さなかった言訳を簡単にいったきり、不快げに眼を細く光らしていた。それで久能は自分達の作品に対する龍野氏の不満が判ったばかりでなく、氏の留守中に久能が妹を訪門したのを気づいたらしい肉身的な不快さが読みとれ久能の背筋は冷たくなった。思い余って久能は、数日前、随筆のお礼にかこつけて、龍野氏の留守を知りながら頼子を訪ねていった。玄関に這入って行くと、頼子が弾いているらしく、ピアノの音が洩れ、女中があらわれると一緒に、それは止み、いよいよ頼子に会うことが出来るのだという期待で、動悸を算えていると、女中は、口を曲げて出て来、頼子は外出中だといった。ピアノを弾く年頃の人は彼女のほかにいない筈なのだがと、併し言い返しも出来ず、打ちひしがれたように退き、何かの翳に斜にみあげると、左側の龍野氏の書斎の群青の帷の隙間から頼子の顔が覗いているので、瞬間じっとみつめると、頼子は誇ったような表情を動かさず、見降しているので、久能は不用意な卑屈さで頭をさげていた。帰る途中、頼子という女はあくまでも遠くから働きかけて来、近づいてくると、ぴたりと入口を閉める、青江とは反対の聡明な女なのだ。そう思い出し、龍野氏と別れて、九輪を型どった青銅の噴泉の傍に呆然としていると、三ツ木がニヤニヤしながら遣って来た。お茶を啜りながら、遂々自分では書かなかった三ツ木は各同人の作品を痛罵し出したので、久能は自分の作品も一たまりもなくやられるのが判っているので、逃げ仕度をしていると、三ツ木は急に声をひそめ、久能に近寄って、久能君、非道く評判ですよ、君は誰に清書させたんですか、久能の奴こんな女文字の原稿を送ってくるなんて不届な奴だといって憤慨していた男もあったぜ、といい出したので久能は急に返事が出来ず、青江が黒い鞭になって、彼の面をずたずたにひったたくのを感じながら、赤くなって、僕が病
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