気でいる中に、青江が、僕の許しも受けず清書したのだと弁解しても、三ツ木は愈々平たい頤を久能の眼前一ぱいに拡げて、嫉ましそうな眼をつりあげてしばたたき、もう君はあの娘を認識しているんですね、と止めを刺したようにいって笑い出した。久能は苦い虫を噛んだように黙っていると、三ツ木は久能が承認したのだと信じて、青江の肌は妙らしいものだと説明しはじめ、俺にだって、ああいう助手がいたら義理にも傑作を書くなあといった挙句、また球を撞こうと誘い出した。久能は不快さの中にも三ツ木のキューを握っている恰好の憑かれた三昧境を思い浮べて、この男が文学をやるのは一体どういう心算なのだろうと不思議にも、おかしくもなったが、こういう同人のいる雑誌では長続きは勿論、いい結果は得られないなと考え、三ツ木と表へとび出した時、菊崎に出遇ったので、久能は彼に無形なものを追っている迂濶さを嗤われているようで不快だった。併し三ツ木は文科にもああいう莫迦がいるんでやりきれないよ、文学の何たるやも知らない奴だと罵っていた。
その夜、眠りからふと眼を開くと、久能は体が未知な衝動で慄えるのを感じた。彼は球を撞いてから、隅田川の向うに行くのだといって金を借りて別れていった三ツ木の言葉を思い出していた。それは青春の心臓の妖しい潮騒だった。久能はもう久しい事その響をきいていたが、堰を破る程にも狂い出さず、いつも対象を遠い時と所とに置いていたのに、三ツ木は無理矢理にその距離を狭ばめ、ああ僕はもう今、淵の前に立っているのだな、と初めてわかり、青江が全く新らしい眼の前に立ち、自分は危険な一線に近づいていたのかと、三ツ木にして見れば平凡極まる推測が、久能にはなまましく、魅するような悪魔の言葉に聞きとれたのだった。久能は獣になろうとしている自分を感じ、愛し切れない青江にこれ以上近づいたら、その後に開けてくるのは地獄の外にはないのだと考え、もう三ツ木の言葉がかもし出した新らしい悪戦苦闘を闘い出していた。
ある夜、その頃は秋も大分闌けていた、病気以来遊びに来ない日のなくなった青江は久能の部屋に這入ったきり出ていこうとしなかった。彼女は親達から帰国を強要されていた。そこには彼等が良縁だと熱心になっている相手が手を伸べていた。帰りたくないわ、と傍を離れない青江に久能は少しも感情の動きを示さないように努めて、東京にいても青江に格別な幸福があろうとも期待出来ない、(そう漠然と青江を突っぱなすのは久能には変に快よかった。或はそれは既に愛着の現われであったかもしれないが)あなたの親達のすすめている結婚の背後には暗い影も見えないようだし、その男も写真でみたところだけでは僕などよりずっとしっかりしていそうだ、と冷淡に言いながら、久能は自分がひそかに青江が反対に一層彼に頼って来るのを待っているのに気づき、三ツ木の悪魔の言葉がここにもうろついているのが知れ、冷酷ね、あなたはと青江の眼に涙が光り、溢れて来たのを、むしろうずうずして内心にうれしがっていて、頬を親切げにふいてやり、肩を抱いて暗い廊下に出ると、俺はとうとう青江にこのまま遠ざかってしまうのだな、と悪魔の声をききながら、そのまま押すように青江をその部屋に送りとどけた。そして自分の部屋に帰って来て枕にうずくまっていると、突然、体が左右に揺れ出して、そうなると久能は完全な一匹の獣類になって、孤独だ! 孤独だ! と吼えはじめて階段を辷りおり、青江さん! 来て下さい、僕は淋しくて狂い出しそうです、と三時をすぎた静寂の中にうつろな声で獣のようにささやいていた。
久能は言葉を信じている性質の男だった。本当の嘘も云えない代りに、自分の言葉を最後まで守り通す意志もなかった。併し青江は言葉を信じなかった。相手を傷つけることでもいわないではいられない久能がそのときいった言葉は、結婚しないということだった。青江はその様な言葉の繊弱さを見抜いていて、未知な怖ろしさの中にも、晴れやかさの籠った声で、あたし大垣へ帰らないわ、ここの家にもいられないけど、もう決心がついているのよ、といって、秋の終りの自然の忘涼にくらべ、久能と青江は真夏の野の草いきれのなかにいた。翌年二月に父親が青江を迎えに上京して来る前日、久能にだけ行先を教えて、彼女は姿をかくした。久能は口でははっきり結婚を拒否していたが、遂にはそうせずにはいられなくなりそうだと感じ始めていた。
春になっていた。併し久能には桜も、新緑もなかった。青空もなかった。彼は二月程前から忌わしい病気に罹っていた。久能はいつものように、もう夕暮に間近い街の前後を窺ってから、その白色の大きな病院にこそこそと這入っていった。逃げるように廊下を小走りして階段を登りかけると、降りて来た青年と頭を見合せ、あ、と思わず叫んで、二人とも立ち竦んだ。相手の男もま
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