ざまざと困惑を露わして、とんだ処で会いましたな、と思い切り悪く苦笑しくいた。久能は菊崎のてれているのを幾分滑稽に感じて、君がね? と、場所が場所だけにお互に痛くもあり、やはりやられているのだなという、軽蔑や、同情や、安心で、ではまたと、久能は上に菊崎は下に別れた。菊崎は勉強家で通っていたし卒業間際にもうある私立大学の教授の椅子を贏得た位なので、そんな処で出会ったのは全く意外だったが、それからも久能は度々その皮膚科の待合室で彼と顔を合せた。学生時代には余り親しんでもいなかったが、菊崎は前より無口でなくなっていて、僕は人生観が変りましたね、僕はもう家族からも友人からも無類の堅人と思い込まれているので、遣切れない程不自由な思をし、表面と裏面を演じわけるのに苦労してるんです、実に不快ですね、それに実際、この病気は陰欝ですね、お袋など、お前この頃心配があるのかねときくんですよ、びっくりしますね、それに一番困ったことには近々に結婚しなくちゃならない破目に陥っているんですよ、などと話して、久能さんは一体どこに出掛けたんですかと聞きはじめた。久能はその瞬間、苦しげに頬をゆがめて、僕はちっとも遊びなどした訳でないんですよ、自分でも原因が判らなくって、弱っているんですがね、といったがその言葉には少しも力がなく、だんだん追究されると、青江に持っている血のような疑いを口に出したくなって来るのだった。それでもさすがに恥じているので曖昧な返事をしていると菊崎は、じゃ素人ですね、と久能の避けているところに触れて来て、終には久能もかくしきれず、昨年の秋の末頃、僕はある純潔な娘と恋愛に落ちたのですが、ところが今年の二月頃、僕は突然異常を感じて、この病院に通い始めたんですと告白すると菊崎は眉を寄せて、それであなたに覚えがあるんですか、ときき、久能は面を伏せていい難そうに、いや、全然、それで僕は勿論、彼女に詰問したんですが彼女は頑強に潔白を主張するのですよ。僕はありとあらゆる手段を尽して彼女に泥を吐かせようと試みたのですが効目がなく、現に彼女自身は健康だといい張るのです。それではと僕は彼女をある病院に伴れて行きました。併し彼女は顔色一つ変えないで医者の前に立ってました。すると医者は診察する前に、僕を呼んで、何故診察を受けに来たかときくので僕が正直に事情を話すと、その博士は診断を拒絶したんです。[#「拒絶したんです。」は底本では「拒絶したんです」]そういう事件に関しては医者の権限外であるといって、問題の渦中に巻き込まれたくなかったのですね、僕の精神は緊張の結果、ひどく弱っていたので、僕自身もこの問題に深入りしまいと決心したのです、悪い女には却って魅力があるような気がしましてね、彼女が医者に行く前も後も何やら晴々していて、僕に親切にしている、恐らく罪の苛責というものを感じないでいる女の魅力‥‥僕は最初その女を愛していなかったのに、今では夢中になっているのです、と話すと、菊崎は憐れみの眼で久能を見、それは変ですね、あくまでも、非常な例外としては浴場や、トアレットで感染する場合があるそうですが、全然潔癖に通したのでない以上信じられない事ですねと、無遠慮にいったので、久能は再び疑いを新らしくする機会を与えられて、今度こそ青江に白状させないでは置かないと決心し、それに又自分は何故この様に真相を知りたがっているのだろう、大人というものは誰でも自分の知ることに限りがあるのを知っている様子なのにでなければ単に青江が自分を裏切ったのだと信じ切ってしまえば万事が終るではないか、自分では青江に本当の愛を誓わないでいる癖に、青江の行為が例えどの様に汚れていようと、自分にはそれを責める権能も、関心もない筈ではないのか、と反省しながらも、裏切ったばかりでなく、裏切っていることさえひた隠しにしている青江は二重に自分を裏切っているのだと、本能的にわいて来る口惜しさや、他の男の影がちらつく不快さに久能は眼前が昏くなった。その時久能は自分が青江に負けているのをしみじみ感じた。久能が結婚しないよといっても平気でいて、現実の行為の世界でずんずん久能をひきずっていく青江には勝てない、ああ俺はどうしてこんなにうわべの、青江の告白などという言葉ばかりを捜しているのだろう。今だにひたすら青江を信じたい気持が――俺は青江から純粋に愛されていたのだという意識や、記憶を持ちたい感情が、久能の胸の奥に恋々と居坐っていた。そしてそれ等を背景に置くと、青江の、今まで厭わしかった点が、急に眼を射るように輝き、久能を魅して来、到底青江から離れることは出来ないと思わせた。
菊崎に別れて、久能は古本屋に立寄り、大事にしていた原語の詩集類を僅かな金に代えて売り払った。職に就けないでいる久能は蔵書を医療費にあてていた。それも元より多く
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