のように誤信せずにいられなかった。久能は雑誌を飾るため新い作家として売り出していた龍野氏に原稿を依頼してあった。これは龍野氏の妹の頼子からの手紙で、兄は急に旅行に出かけたので、お約束を果すことが出来ない、宜しく伝えて呉れる様にとの事でしたという簡単な謝り状を久能は繰返し繰返し読み、頼子は恐らく自分達の仕事に関心をもっていて呉れるのだと推察し、ふと彼女も仏文学に堪能なことを思付くと、彼女に何か書いて貰おうとすぐ決心した。その夜青江を責めると、却って久能が浮き浮きしているのを逆襲され、青江の眼の色がいつもと違ってじっと自分を見据えているのに気づかず、青江のいう通りかも知れない、一二度龍野氏を訪ねた際、頼子に直接会いはしなかったが、襖越しに声を聞いたことはあり、龍野氏の前に踞んで、腕に余る猫を抱いていた写真を見て、兄の冷たい鋭どさが、ずっと奥にひそまって穏やかに輝いているのに惹かれたことがあった。実はその雑誌を今日古本屋で探し出して来て、妹の姿だけを切抜き、その手紙の中に入れて置いた処だった。久能が机の前に坐って、頼子宛の依頼状を認めていると、忍び足に階段を登って来た青江が平生にないおどおどした声で、入ってもよくってというので、急いで依頼状を隠し、うんと答えると、彼女は手に百合の花を持っていて、お友達にもらったのよ、と上気して言訳をいいながら、放り出されていた花瓶に生けて本柵の上に置くと、ああ強い、いやな匂だ、頼子の手紙のかおり[#「かおり」に傍点]の幻影が消えて了う、と不快さを明らさまに表わしながら、せっせと久能はノートを筆記した。忙しくて? と青江が寄って来ると忙しくて堪まらないんだ、こんなに溜っているとノートを広げて見せ、青江に少しの隙もみせず、追い遣って、階段の音がきえると、ホッとしてまた依頼状をかき出した。
 頼子の手紙が来てからというものは、どういう刺戟からか、久能に示した青江の変化は激しかった。隙をうかがっては彼の傍に現われて話しかけ、襟の屑を払ったり、しまいには夜具の汚れた上被を解いて洗い、毎日、新らしい花を生けた。久能は一向気づかない風だったが、ある夜帰って来るとノートが十二頁青江の手で写され、彼女は尚机にうつぶしになって一心にペンを動かしていた。久能はすぐ難かしい顔をして、ノートを取りあげてみると、拙劣な、しかし丁寧な字がならび、原語は四頁まで刻命に、それでも間違だらけで書きとられ、その次の頁から、原語だけは諦めたと見えて空白になっていた。繰り拡げている中に久能は羞かしさや、屈辱や、恐怖が湧いて来た。大垣で高利貸をしている青江の父や、玄人上りの、時々、株を張りに堂島に出かけていくという継母や、一眼で淫蕩を想像させる青江が自分の血に交ってくる予感! その押えきれない恐怖心で久能は青江を突き退け、僕のノートを汚さないで貰いたいなと震えた声音でいい、それだけでは不安を押えることも、怒りを相手に伝えることも出来ないという半ばは意識的な遣方で、いきなりばりばりと十二頁のノートを引きさいて、下へ持ってって下さいと青江の前に突き出すと、青江はかすかな冷笑で久能を見返し、なぜいけないの、というので、彼は、こんな字汚なくて読めない、と答え、久能さんの字だって綺麗な方じゃないわ、とやり返して来る青江に、僕の字はどんなに汚なくったって僕には読める、第一女の書いたノートを持って学校に行けるもんかと、突っぱなすと、青江は机の前に無表情に坐ったまま、頬に落ちて来る涙を頑くなに拭きもしないでいた。そうして向き合っていると、くやしいためなのか、圧迫されるためなのか、自然に眼頭が熱くなって、今にも弱身をみせそうになるので、自分の方から部屋を出ていき、夜の街を、暗いところ暗いところと歩みまわった。すると次第に青江が気の毒になり、自分の心の狭さが後悔され、ああ、あのまま知らぬ顔をしておれば、青江も喜ぶのだし、自分も労力を大分省けたものを、もっとずるくなって悉皆青江に写さして了えばいいものをと考え、遠くの何一つ本当の生活を知らない頼子に徒らな興味や尊敬をもちながら、近くで実際的な親切を尽して呉れる青江には何故こんなに冷淡なのだろう、青江の官能的な圧迫を一々悪意にとって彼女を苦しめるには当らないじゃあないか、自分は間違っている、青江にあやまろうと思っている中にまた、いや、僅かでも彼女を許せば、ずるずるっと彼女のとりこ[#「とりこ」に傍点]になって了うぞと怖ろしく感じ、とりとめなく歩きまわっていた。
 その夜から再び青江は久能に冷淡になった。勿論その蔭には強烈な意識が針のように動いていた。お互の時間がかけ違っていて機会は滅多になかったが、出会っても、知らぬ顔をし、一緒に食事する時も一枚の板のような表情だった。
 頼子から承諾の手紙が来た。同じ封筒、同じ芳香
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