りしている。
「わがーアものーオと」の歌につれて、吉弥は踊り出したが、踊りながらも、
「何だかきまりが悪い、わ」と言った。
 そのはにかんでいる様子は、今日まで多くの男をだまして来た女とは露ほども見えないで、清浄無垢《しょうじょうむく》の乙女《おとめ》がその衣物を一枚一枚|剥《は》がれて行くような優しさであった。僕が畜生とまで嗅《か》ぎつけた女にそんな優しみがあるのかと、上手下手《じょうずへた》を見分ける余裕もなく、僕はただぼんやり見惚《みと》れているうちに、
「待つウ身にイ、つらーアき、置きイごたーアつ」も通り抜けて、終りになり、踊り手は畳に手を突いて、しとやかにお辞儀をした。こうして踊って来た時代もあったのかと思うと、僕はその頸ッ玉に抱きついてやりたいほどであった。
「もう、御免よ」吉弥は初めて年増《としま》にふさわしい発言《はつごん》をして自分自身の膳にもどり、猪口を拾って、
「おッ母さん一杯お駄賃に頂戴よ」
「さア、僕が注《つ》いでやろう」と、僕は手近の銚子を出した。
「それでも」と、お袋は三味を横へおろして、
「よく覚えているだけ感心だ、わ。――先生、この子がおッ師匠《しょ》さんのところへ通う時ア、困りましたよ。自分の身に附くお稽古なんだに、人の仕事でもして来たようにお駄賃をくれいですもの。今もってその癖は直りません、わ。何だというと、すぐお金を送ってくれい――」
「そうねだりゃアしない、わ」と、吉弥はほほえんだ。
「………」また金の話かと、僕はもうそんなことは聴きたくないから、すぐみんなで飯を喰った。

     一五

 お袋は一足さきへ帰ったので、吉弥と僕とのさし向いだ。こうなると、こらえていた胸が急にみなぎって来た。
「先生にこうおごらして済まない、わ、ねえ」と、可愛い目つきで吉弥が僕をながめたのに答えて、
「馬鹿!」と一声、僕は強く重い欝忿《うっぷん》をあびせかけた。
「そのこわい目!」しばらく吉弥は見つめていたが、「どうしたのよ」と、かおをしがめて僕にすり寄って来た。
「ええッ、穢《けが》れる、わい!」僕はこれを押し除《の》けて、にらみつけ、「知らないと思って、どこまで人を馬鹿にしゃアがるんだい? さッき、おれがここへ来るまでのここのざまッたら何だ?」
 吉弥はちょっとぎゃふんとしたようであったが、いずまいを直して、
「聴いてたの?」と、きまりが悪い様子。
「聴いてたどころか、隣りの座敷で見ていたも同前だい!」
「あたい、何も田島さんを好いてやしない、わ」
「もう、好く好かないの問題じゃアない、病気がうつる問題だよ」
「そんな物アとっくに直ってる、わ」
「分るもんか? 貴様の口のはたも、どこの馬の骨か分りもしない奴の毒を受けた結果だぞ」
 言っておかなかったが、かの女の口のはたの爛《ただ》れが直ったり、出来たりするのは、僕の初めから気にしていたところであった。それに、時々、その活《い》き活《い》きした目がかすむのを井筒屋のお貞が悪口《わるくち》で、黴毒性《ばいどくせい》のそこひが出るのだと聴いていたのが、今さら思い出されて、僕はぞッとした。
「寛恕《かに》して頂戴よ」と、僕の胸に身を投げて来た吉弥をつき払い、僕はつッ立ちあがり、「おッ母さんにそう言ってもらおう、僕も男だから、おッ母さんに約束したことは、お前の方で筋道さえ踏んで来りゃア、必らず実行する。しかしお前の身の腐れはお前の魂から入れ変えなけりゃア、到底、直りッこはないんだ。――これは何も焼き餅から言うんじゃアない、お前のためを思って言うんだ」
 怒りはしたものの、僕は涙がこぼれた。それとなく、ハンケチを出して目を拭《ふ》きながら座敷を出た。出てからちょっとふり返って見たが、かの女は――分ったのか、分らないのか――突き放されたままの位置で、畳に左の手を突き、その方の袂《たもと》の端を右の手で口へ持って行った。目は畳に向いていた。
 その翌日、午前中に、吉弥の両親はいとま乞《ご》いに来た。僕が吉弥をしかりつけた――これを吉弥はお袋に告げたか、どうか――に対する挨拶などは、別になかった。とにかく、僕は一種不愉快な圧迫を免れたような気がして、女優問題をもなるべく僕の心に思い浮べないようにしようときめた。かつ、これからは僕から弱く出てかれこれ言うには及ばない、吉弥に性根があったら、向うから何とか言って来るだろう、それを待っているにしくはないと考えた。
「先生も御如才はないでしょうが――この月中が肝心ですから、ね」と、お袋の別れの言葉はまたこうであった。
「無論ですとも」と答えたが、僕はあとで無論もくそもあったものかという反抗心が起った。そして、それでもなお実は、吉弥がその両親を見送りに行った帰りに、立ち寄るのが本当だろうと、外出もしないで待っていたか、吉弥は来なかった。昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。
 そのまたあくる日も、日が暮れるまで待っていたが、来なかった。もうお座敷に行ったろうからだめだと、――そして、井筒屋ははやらないが、井筒屋の独り芸者は外へ出てはやりッ子なんだから――あきらめて、書見でもしようと、半分以上は読み終ってあるメレジコウスキの小説「先駆者」を手に取った。国府津へ落ちついた当座は、面白半分一気に読みつづけて、そこまでは進んだが、僕の気が浮かれ出してからは、ほとんど全くこれを忘れていたありさまであったのだ。この書の主人公レオナドダヴィンチの独身生活が今さらのごとく懐《なつ》かしくなった。
 仰向けに枕して読みかけたが、ふと気がつくと、月が座敷中にその光を広げている。おもてに面した方の窓は障子をはずしてあったので、これは危険だという考えが浮んだ。こないだから持っていた考えだが、――吉弥の関係者は幾人あるか分らないのだから、僕は旅の者だけに、最も多くの恨みを買いやすいのである。いついかなる者から闇打ちを喰らわされるやも知れない。人通りのない時、よしんば出来心にしろ、石でもほうり込まれ、怪我《けが》でもしたらつまらないと思い、起きあがって、窓の障子を填《は》め、左右を少しあけておいて、再び枕の上に仰向けになった。
 心が散乱していて一点に集まらないので、眼は開いたページの上に注がれて、何を読んでいるのか締りがなかった。それでもじッと読みつづけていると、新らしい事件は出て来ないで、レオナドと吉弥とが僕の心をかわるがわる通過する。一方は溢《あふ》れるばかりの思想と感情とを古典的な行動に包んだ老独身者のおもかげだ。また一方はその性情が全く非古典的である上に、無神経と思われるまでも心の荒《すさ》んだ売女の姿だ。この二つが、まわり燈籠《どうろう》のように僕の心の目にかわるがわる映って来るのである。
 一方は、燃ゆるがごとき新情想を多能多才の器《うつわ》に包み、一生の寂しみをうち籠《こ》めた恋をさえ言い現わし得ないで終ってしまった。その生涯《しょうがい》はいかにも高尚《こうしょう》である、典雅である、純潔である。僕が家庭の面倒や、女の関係や、またそういうことに附随して来るさまざまの苦痛と疲労とを考えれば、いッそのこと、レオナドのように、独身で、高潔に通した方が幸福であったかと、何となく懐かしいような気がする。しかし、また考えると、高潔でよく引き締った半僧生活は、十数年前、すでに、僕は思想と実験との上で通り抜けて来たのだ。そんな初々《ういうい》しいことで、現在の僕が満足出来ないのは分りきっている。僕の神経はレオナドの神経より五倍も十倍も過敏になっているだろう。
 こう思うと、また、古寺の墓場のように荒廃した胸の中のにおいがして来て、そのくさい空気に、吉弥の姿が時を得顔に浮んで来る。そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よりは重く、足も常よりは倦怠《けったる》いのをおぼえた。
 僕の過敏な心と身体とは荒んでいるのだ。延びているのだ。固まっていた物が融けて行くように、立ち据《す》わる力がなくなって、下へ下へと重みが加わったのだろう。堕落、荒廃、倦怠《けんたい》、疲労――僕は、デカダンという分野に放浪するのを、むしろ僕の誇りとしようという気が起った。
「先駆者」を手から落したら、レオナドはいなくなったが、吉弥ばかりはまだ僕を去らない。
 かの女は無努力、無神経の、ただ形ばかりのデカダンだ、僕らの考えとは違って、実力がない、中味がない、本体がない。こう思うと、これもまた厭《いや》になって、僕は半ばからだを起した。そうすると、吉弥もまた僕の心眼を往来しなくなった。
 暑くッてたまらないので、むやみにうちわを使っていると、どこからか、
「寛恕《かに》して頂戴よ」という優しい声が聴える。しかしその声の主はまだ来ないのであった。

     十六

 僕が強く当ったので、向うは焼けになり、
「じゃア勝手にしろ」という気になったのではあるまいか? それなら、僕から行かなければ永劫《えいごう》に会えるはずはない。会わないなら、会わない方が僕に取ってもいいのだが、まさか、向うはそうまで思いきりのいい女でもなかろう。あの馬鹿|女郎《めろう》め、今ごろはどこに何をしているか、一つ探偵《たんてい》をしてやろうと、うちわを持ったまま、散歩がてら、僕はそとへ出た。
 井筒屋の店さきには、吉弥が見えなかった。
 寝ころんでいたせいもあろう、あたまは重く、目は充血して腫《は》れぼッたい。それに、近ごろは運動もしないで、家にばかり閉《と》じ籠《こも》り、――机に向って考え込んでいたり――それでなければ、酒を飲んでいたり――ばかりするのであるから、足がひょろひょろしている。涼しく吹いて来る風に、僕はからだが浮きそうであった。
 でこぼこした道を踏みしめ、踏みしめ、僕は歩いていたが、街道を通る人かげがすべて僕の敵であるかのように思われた。月光に投げ出した僕の影法師も、僕には何だかおそろしかった。
 なるべく通行者に近よらないようにして、僕はまず例のうなぎ屋の前を通った。三味の音や歌声は聴えるが、吉弥のではない。いないのか知らんと、ほかに当てのある近所の料理屋の前を二、三軒通って見た。そこいらにもいそうもないような気がした。
 青木の本陣とも言うべきは、二、三町さきの里見亭《さとみてい》だ。かれは、吉弥との関係上初めは井筒屋のお得意であったが、借金が嵩《かさ》んで敷居が高くなるに従って、かのうなぎ屋の常客となった。しかしそこのおかみさんが吉弥を田島に取り持ったことが分ってから、また里見亭に転じたのだ。そこでしくじったら、また、もう少しかけ隔った別な店へ移るのだろう。はたから見ると、だんだん退却して行くありさまだ。吉弥の話したことによると、青木は、かれ自身が、
「無学な上に年を取っているから、若いものに馬鹿にされたり、また、自分が一生懸命になっている女にまでも謀叛《むほん》されたりするのだ」と、男泣きに泣いたそうだ。
 ある時などかれは、思いものの心を試《た》めそうとして、吉弥に、その同じ商売子で、ずッと年若なのを――吉弥の合い方に呼んでいたから――取り持って見よと命じた。吉弥は平気で命令通り向うの子を承知させ、青木をかげへ呼んでその旨を報告した。
「姉さんさえ承知ならッて――大丈夫よ」
「………」青木は、しかしそう聴いてかえってこれを残念がり、実は本意でない、お前はそんなことをされても何ともないほどの薄情女かと、立っている吉弥の肩をしッかりいだき締めて、力一杯の誠意を見せようとしたこともあるそうだ。思いやると、この放蕩《ほうとう》おやじでも実があって、可哀そうだ。吉弥こそそんな――馬鹿馬鹿しい手段だが――熱のある情けにも感じ得ない無神経者――不実者――。
 こういうことを考えながら、僕もまたその無神経者――不実者――を追って、里見亭の前へ来た。いつも不景気な家だが、相変らずひッそりしている。いそうにもない。しかしまたこッそり乳くり合っているのかも知れないと思えば、急に僕の血は
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