僕はいたたまらないで二階を下りて来た。
しばらくしてはしご段をとんとんおりたものがあるので、下座敷からちょッと顔を出すと、吉弥が便所にはいるうしろ姿が見えた。
誰れにでもああだろうと思うと、今さらのようにあの粗《あら》い肌が連想され、僕自身の身の毛もよだつと同時に、自分の心がすでに毛深い畜生になっているので、その鋭い鼻がまた別な畜生の尻を嗅《か》いでいたような気がした。
一三
田島が帰ると同時に、入れ代って、吉弥の両親がはいって来た。
「明きましたから、どうぞ二階へ」と、今度はここのかみさんから通知して来たので、僕は室を出て、またはしご段をのぼろうとすると、その両親に出くわした。
「お言葉にあまえて」と、お袋は愛相よく、「先生、そろってまいりましたよ」
「さア、おあがんなさい」と、僕はさきに立って二階の奥へ通った。
おやじというのは、お袋とは違って、人のよさそうな、その代り甲斐性《かいしょう》のなさそうな、いつもふところ手をして遊んでいればいいというような手合いらしい。男ッぷりがいいので、若い時は、お袋の方が惚《ほ》れ込んで、自分のかせぎ高をみんな男の賭博《とばく》の負けにつぎ足しても、なお他の女に取られまい、取られまいと心配したのだろうと思われる。年が寄っても、その習慣が直らないで、やッぱりお袋にばかり世話を焼かせているおやじらしい。下駄《げた》の台を拵えるのが仕事だと聴いてはいるが、それも大して骨折るのではあるまい。(一つ忘れていたが、お袋の来る時には、必らず僕に似合う下駄を持って来ると言っていたが、そのみやげはないようだ)初対面の挨拶も出来かねたようなありさまで、ただ窮屈そうに坐って、申しわけの膝ッこを並べ、尻は少しも落ちついていない様子だ。
「お父さんの風ッたら、ありゃアしない」お袋がこう言うと、
「おりゃアいつも無礼講《ぶれいこう》で通っているから」と、おやじはにやりと赤い歯ぐきまで出して笑った。
「どうか、おくずしなさい。御遠慮なく」と、僕はまず膝をくずした。
「お父さんは」と、お袋はかえって無遠慮に言った、「まァ、下駄職に生れて来たんだよ、毎日、あぐらをかいて、台に向ってればいいんだ」
「そう馬鹿にしたもんじゃアないや、ね」と、おやじはあたまを撫《な》でた。
「御馳走《ごちそう》をたべたら、早く帰る方がいいよ」と、吉弥も笑っている。
おかしくないのは僕だけであった。三人に酒を出し、御馳走を供し、その上三人から愚弄《ぐろう》されているのではないかと疑えば、このまま何も言わないで立ち帰ろうかとも思われた。まして、今しがたまでのこの座敷のことを思い浮べれば、何だか胸持《むなも》ちが悪くなって来て、自分の身までが全くきたない毛だ物になっているようだ。香ばしいはずの皿も、僕の鼻へは、かの、特に、吉弥が電球に「やまと」の袋をかぶせた時の薄暗い室の、薄暗い肌のにおいを運んで、われながら箸がつけられなかった。
僕の考え込んだ心は急に律僧のごとく精進癖にとじ込められて、甘い、楽しい、愉快だなどというあかるい方面から、全く遮断《しゃだん》されたようであった。
ふと、気がつくと、まだ日が暮れていない。三人は遠慮もなくむしゃむしゃやっている。僕は、また、猪口《ちょく》を口へ運んでいた。
「先生は御酒《ごしゅ》ばかりで」と、お袋は座を取りなして、「ちッともおうなは召しあがらないじゃアございませんか?」
「やがてやりましょう――まア、一杯、どうです、お父さん」と、僕は銚子を向けた。
「もう、先生、よろしゅうございますよ。うちのは二、三杯頂戴すると、あの通りになるんですもの」
「しかし、まだいいでしょう――?」
「いや、もう、この通り」と、おやじは今まで辛抱していた膝ッこを延ばして、ころりと横になり、
「ああ、もう、こういうところで、こうして、お花でも引いていたら申し分はないが――」
「お父さんはじきあれだから困るんです。お花だけでも、先生、私の心配は絶えないんですよ」
「そう言ったッて、ほかにおれの楽しみはないからしようがない、さ」
「あの人もやッぱし来るの?」吉弥がお袋に意味ありげの目を向けた。
「ああ、来るよ」お袋は軽く答えて、僕の方に向き直り、「先生、お父さんはもう帰していいでしょう?」
「そこは御随意になすってもらいましょう。――御窮屈なら、お父さん、おさきへ御飯を持って来させますから」と、僕は手をたたいて飯を呼んだ。
「お父さんは御飯を頂戴したら、すぐお帰りよ」と、お袋はその世話をしてやった。
僕は女優問題など全く撤回しようかと思ったくらいだし、こんなおやじに話したッて要領を得ないと考えたので、いい加減のところで切りあげておいたのだ。
飯を独りすませてから、独りで帰って行くのらくらおやじの姿がはしご段から消えると、僕の目に入れ代って映じて来るまぼろしは、吉弥のいわゆる「あの人」であった。ひょッとしたら、これがすなわち区役所の役人で、吉弥の帰京を待っている者――たびたび花を引きに来るので、おやじのお気に入りになっているのかも知れないと推察された。
一四
その跡に残ったのはお袋と吉弥と僕との三人であった。
「この方が水入らずでいい、わ」と、お袋は娘の顔を見た。
「青木は来たの?」吉弥はまた母の顔をじッと見つめた。
「ああ、来たよ」
「相談は定まって?」
「うまく行かないの、さ」
「あたい、厭だ、わ!」吉弥は顔いろを変えた。「だから、しッかりやって頂戴と言っておいたじゃアないか?」
「そう無気《むき》になったッてしようがない、わ、ね。おッ母さんだッて、抜かりはないが、向うがまだ険呑《けんのん》がっていりゃア、考えるのも当り前だア、ね」
「何が当り前だア、ね? 初めから引かしてやると言うんで、毎月、毎月|妾《めかけ》のようにされても、なりたけお金を使わせまいと、わずかしか小遣いも貰《もら》わなかったんだろうじゃないか? 人を馬鹿にしゃアがったら、承知アしない、わ。あのがらくた店へ怒鳴《どな》り込んでやる!」
「そう、目の色まで変えないで、さ――先生の前じゃアないか、ね。実は、ね、半分だけあす渡すと言うんだよ」
「半分ぐらいしようがないよ、しみッたれな!」
「それがこうなんだよ、お前を引かせる以上は青木さん独りを思っていてもらいたい――」
「そんなおたんちんじゃアないよ」
「まア、お聴きよ」と、お袋は招ぎ猫を見たような手真似をして娘を制しながら、「そう来るのア向うの順じゃアないか? 何でもはいはいッて言ってりゃいいんだア、ね。――『そりゃア御もっとも』と返事をすると、ね、お前のことについて少し疑わしい点があると――」
「先生にゃア関係がないと言ってあるのに」
「いいえ、この方は大丈夫だが、ね、それ――」
「田島だッて、もう、とっくに手を切ッたって言ってあるよ」
「畜生!」僕は腹の中で叫んだ。
「それが、お前、焼き餅だァ、ね」と、お袋は、実際のところを承知しているのか、いないのか分らないが、そらとぼけたような笑い顔。「つとめをしている間は、お座敷へ出るにゃア、こッちからお客の好き嫌いはしていられないが、そこは気を利《き》かして、さ――ねえ、先生、そうじゃアございませんか?」
「そりゃア、そうです」と、僕は進まないながらの返事。
「実は、ね」と、吉弥はしまりなくにこつき出して、「こんなことがあったのよ。このお座敷に青木さんがいて、下に田島が来ていたの。あたい、両方のかけ持ちでしょう、上したの焼き持ち責めで困っちまった、わ。田島がわざと跡から攻めかけて来て、焼け飲みをしたんでしょう、酔ッぱらッちまって聴えよがしに歌ったの、『青木の馬鹿野郎』なんかんて。青木さんは年を取ってるだけにおとなしいんで、さきへ帰ってもらった、わ」
こう話しながらも、吉弥はたッた今あったことを僕が知っているとは思わないので、十分僕に気を許している様子であった。僕は、吉弥とお袋との鼻をあかすために、すッぱり腹をたち割って、僕の思いきりがいいところを見せてやりたいくらいであったが、しみッたれた男が二人も出来ているところへ、また一人加わったと思われるのが厭さに、何のこともない風で通していた。
「そんなことのないようにするのが」と、お袋は僕に向った、「芸者のつとめじゃアございませんか?」
「大きにそうです、ね」僕はこう答えたが、心では、「芸者どころか、女郎や地獄の腕前もない奴だ」と、卑しんでいた。
「あたいばかり責めたッて、しようがないだろうじゃないか?」吉弥はそのまなじりをつるしあげた。それに、時々、かの女の口が歪《ゆが》む工合は、お袋さながらだと見えた。
「まア、すんだことはいいとして、さ」と、お袋は娘をなだめるように、「これからしばらく大事だから、よく気をおつけなさい。――先生にも頼んでおきたいんです、の。如才はございますまいが、青木さんが、井筒屋の方を済ましてくれるまで、――今月の末には必らずその残りを渡すと言うんですから――この月一杯は大事な時でございます。お互いに、ね、向うへ感づかれないように――」と、僕と吉弥とを心配そうに見まわした様子には、さすが、親としての威厳があった。
「そりゃアもちろんです」と、僕はまた答えた。僕は棄てッ鉢に飲んだ酒が十分まわって来たので、張りつめていた気も急にゆるみ、厭なにおいも身におぼえなくなり、年取った女がいるのは自分の母のごとく思われた。また、吉弥の坐っているのがふらふら動くように見えるので、あたかも遠いところの雲の上に、普賢菩薩《ふげんぼさつ》が住しているようで、その酔いの出たために、頬《ほお》の白粉《おしろい》の下から、ほんのり赤い色がさす様子など、いかにも美しくッて、可愛らしくッて、僕の十四、五年以前のことを思い出さしめた。
僕は十四、五年以前に、現在の妻を貰ったのだ。僕よりも少し年上だけに、不断はしッかりしたところのある女だが、結婚の席へ出た時の妻を思えば、一、二杯の祝盃《しゅくはい》に顔が赤くなって、その場にいたたまらなくなったほどの可愛らしい花嫁であった。僕は、今、目の前にその昔の妻のおもかげを見ていた。
そのうちにランプがついたのに気がつかなかった。
「先生はひどく考え込んでいらッしゃるの、ね」と、お袋の言葉に僕は楽しい夢を破られたような気がした。
「大分酔ったんです」と、僕はからだを横に投げた。
「きイちゃん」と、お袋は娘に目くばせをした。
「しッかりなさいよ、先生」吉弥は立って来て、僕に酌をした。かの女は僕を、もう、手のうちにまるめていると思っていたのか、ただ気まま勝手に箸《はし》を取っていて、お酌はお袋にほとんどまかしッきりであったのだ。
「きイちゃん、お弾きよ――先生、少し陽気に行きましょうじゃアございませんか?」
吉弥のじゃんじゃんが初まった。僕は聴きたくないので、
「まア、お待ち」と、それを制し、「まだお前の踊りを見たことがないんだから、おッ母さんに弾いてもらって、一つ僕に見せてもらおう」
「しばらく踊らないんですもの」と、吉弥は、僕を見て、膝に三味をのせたままでからだを横にひねった。
「………」僕は年の行かない娘が踊りのお稽古《けいこ》の行きや帰りにだだをこねる時のようすを連想しながら、
「おぼえている物をやったらいいじゃないか?」
「だッて」と、またからだを振ると同時に、左の手を天心《てんじん》の方に行かせて、しばらく言葉を切ったが、――「こんな大きななりじゃア踊れない、わ」
「お酌のつもりになって、さ」とは、僕が、かの女のますます無邪気な様子に引き入れられて、思わず出した言葉だ。
「そういう注文は困る、わ」吉弥は訴えるようにお袋をながめた。
「じゃア」と、お袋は娘と僕とを半々に見て、「私に弾けなくッても困るから、やさしい物を一つやってごらん。――『わが物』がいい、傘《かさ》を持ってることにして、さ」三味線を娘から受け取って、調子を締めた。
「まるで子供のようだ、わ」吉弥ははにかんで立ち上り、身構えをした。
お袋の糸はなかなかしッか
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