役者なるものは――とても、言ったからとて、分るまいとは思ったが、――世間の考えているような、またこれまでの役者みずからが考えているような、下品な職業ではないことを簡単に説明してやった。かつ、僕がやがて新らしい脚本を書き出し、それを舞台にのぼす時が来たら、俳優の――ことに女優の――二、三名は少くとも抱《かか》えておく必要があるので、その手はじめになるのだということをつけ加えた。
「そりゃア御もっともです」と、お袋は相槌《あいづち》を打って、「そのことはこの子からも聴きましたが、先生が何でもお世話してくださることで、またこの子の名をあげることであるなら、私どもには不承知なわけはございません」
「お父さんの考えはどうでしょう?」
「私どものは、なアに、もう、どうでもいいので、始終私が家のことをやきもき致していまして、心配こそ掛けることはございましても、一つとして頼みにならないのでございますよ。私は、もう、独りで、うちのことやら、子供のことやらをあくせくしているのでございます」
「そりゃア、大抵なことじゃアないでしょう。――吉弥さんも少しおッ母さんを安心させなきゃア――」
「この子がまた、先生、一番意気地なしで困るんですよ」お袋は念入りに肩を動かして、さも性根《しょうね》なしとののしるかの様子で女の方を見た。「何でも私に寄りかかっていさえすればいいと思って、だだッ子のように来てくれい、来てくれいと言ってよこすんです」
「だッて、来てくれなきゃア仕方がないじゃアないか?」吉弥はふくれッ面をした。「おッ母さんが来たら、方《かた》をつけるというから、早く来いと言ってやったんじゃアないか?」
「おッ母さんだッて、いろんな用があるよ。お前の妹だッて、また公園で出なけりゃアならなくなったし、そうそうお前のことばかりにかまけてはいられないよ。半玉の時じゃアあるまいし、高が五十円か百円の身受け相談ぐらい、相対《あいたい》ずくでも方がつくだろうじゃアないか? お前よりも妹の方がよほど気が利《き》いてるよ」
「じゃア、勝手にしゃアがれ」
「あれですもの、先生、ほんとに困ります。これから先生に十分仕込んでいただかなければ、まるでお役に立ちませんよ」
「なァに、役者になるには年が行き過ぎているくらいなのですから、いよいよ決心してやるなら、自分でも考えが出るでしょう」
「きイちゃん、しッかりしないといけませんよ」と、お袋はそれでも娘には折れている。
「あたいだッて、たましいはあらア、ね」吉弥は僕の膝《ひざ》に来て、その上に手枕《てまくら》をして、「あたいの一番好きな人」と、僕の顔を仰向けに見あげた。
僕はきまりが悪い気がしたが、お袋にうぶな奴と見抜かれるのも不本意であったから、そ知らぬふりに見せかけ、
「お父さんにもお目にかかっておきたいから、夕飯を向うのうなぎ屋へ御案内致しましょうか? おッ母さんも一緒に来て下さい」
「それは何よりの好物です。――ところで、先生、私はこれでもなかなか苦労が絶えないんでございますよ。娘からお聴きでもございましょうが、芸者の桂庵《けいあん》という仕事は、並み大抵の人には出来ません。二百円、三百円、五百円の代物《しろもの》が二割、三割になるんですから、実入《みい》りは悪くもないんですが、あッちこッちへ駆けまわって買い込んだ物を注文主へつれて行くと、あれは善くないから取りかえてくれろの、これは悪くもないがもッと安くしてくれろのと、間に立つものは毎日気の休まる時がございません。それが田舎《いなか》行きとなると、幾度も往復しなけりゃアならないことがございます。今度だッてもこの子の代りを約束しに来たんですよ、それでなければ、どうして、このせちがらい世の中で、ぼんやり出て来られますものですか?」
「代りなど拵《こさ》えてやらないがいいや、あんな面白くもない家に」と、吉弥は起きあがった。
「それが、ねえ、先生、商売ですもの」
「そりゃア、御もっともで」
「で、御承知でしょうが、青木という人の話もあって、きょう、もう、じきに来て、いよいよの決着が分るんでございますが、それが定《き》まらないと、第一、この子のからだが抜けませんから、ねえ」
「そうですとも、私の方の問題は役者になればいいので、吉弥さんがその青木という人と以後も関係があろうと、なかろうと、それは問うところはないのです」と、僕の言葉は、まだ金の問題には接近していなかっただけに、うわべだけは、とにかく、綺麗なものであった。
「しかし、この子が役者になる時は、先生から入費は一切出して下さるようになるんでしょう、ね」と、お袋はぬかりなく念を押した。
「そりゃア、そうですとも」僕は勢いよく答えたが、実際、その時になっての用意があるわけでもないから、少し引け気味があったので、思わず知らず、「その時ア私がどうともして拵《こさ》えますから、御安心なさい」と附け加えた。
僕はなるようになれという気であったのだ。
お袋は、それから、なお世間話を初める、その間々にも、僕をおだてる言葉を絶たないと同時に、自分の自慢話しがあり、金はたまらないが身に絹物をはなさないとか、作者の誰れ彼れ(その芝居ものと僕が同一に見られるのをすこぶる遺憾に思ったが)はちょくちょく遊びに来るとか、商売がらでもあるが国府津を初め、日光、静岡、前橋などへも旅行したことがあるとかしゃべった。そのうち解けたような、また一物《いちもつ》あるような腹がまえと、しゃべるたびごとに歪《ゆが》む口つきとが、僕にはどうも気になって、吉弥はあんな母親の拵《こさ》えた子かと、またまた厭気がさした。
一二
もう、ゆう飯時だからと思って、僕は家を出《い》で、井筒屋のかど口からちょっと吉弥の両親に声をかけておいて、一足さきへうなぎ屋へ行った。うなぎ屋は筋向うで、時々行ったこともあるし、またそこのかみさんがお世辞者だから、僕は遠慮しなかった。
「おかみさん」と、はいって行って、「きょうはお客が二人あるから、ね」
「あの、先刻、吉弥さんからそれは承っております」と、おかみさんは襷《たすき》の一方をはずした。
「もう、通知してあるのか? 気の早い奴だ、なア」と、僕は二階へあがりかけた。
おかみさんは、どうしたのか、あわてて僕を呼び止め、いつもと違った下座敷へ案内して、
「しばらくお待ちなさって――二階がすぐ明きますから」
「お客さんか、ね」と、僕は何気なくそこへ落ちついた。
かみさんが出て行った跡で、ふと気がつくと、二階に吉弥の声がしている。芸者が料理屋へ呼ばれているのは別に不思議はないのだが、実は吉弥の自白によると、ここのかみさんがひそかに取り持って、吉弥とかの小銀行の田島とを近ごろ接近させていたのだ。田島はこれがためにこの家に大分借金が出来たし、また他の方面でも負財のために頸《くび》がまわらなくなっている。僕が吉弥をなじると、
「お金こそ使わしてはやるが」と、かの女は答えた。「田島さんとほかの関係はない。考えて見ても分るだろうじゃアないか、奥さんになってくれいッて、もしなって国府津にいたら、あッちからもこッちからもあたいを闇打《やみう》ちにする人が出て来るかも知れやアしない、わ」
「お前はそう方々に罪をつくっているのか」と、僕はつッ込んだことがある。が、とにかく、この地にとどまっている女でないことだけは分っていたから、僕の疑いは多少安心な方で、すでにかの住職にも田島に対する僕の間接な忠告を伝えたくらいであった。しかし、その後も、毎日または隔日には必らず会っている様子だ。こうなれば、男の方ではだんだん焼けッ腹になって来る上、吉弥の勘定通り、ますます思いきれなくなるのは事実だ。それに、ある日、吉弥が僕の二階の窓から外をながめていた時、
「ちょいと、ちょいと」と、手招ぎをしたので、僕は首を出して、
「なんだ」と、大きな声を出した。
「静かにおしよ」と、かの女は僕を制して、「あれが田島よ」と、小声。
なるほど、ちょっと小意気だが、にやけたような男の通って行くよこ顔が見えた。男ッぷりがいいとはかねて聴かされていたが、色の白い、肌《はだ》のすべすべしていそうな男であった。その時、僕は、毛穴の立っているおからす芸者を男にしてしまっても、田島を女にして見たいと思ったくらいだから、僕以前はもちろん、今とても、吉弥が実際かれと無関係でいるとは信じられなくなった。どうせ、貞操などをかれこれ言うべきものでないのはもちろんのことだが、青木と田島とが出来ているのに僕を受け、また僕と青木とがあるのに田島を棄てないなどと考えて来ると、ひいき目があるだけに、僕は旅芸者の腑甲斐《ふがい》なさをつくづく思いやったのである。
その田島がてッきり来ているに相違ないと思ったから、僕はこッそり二階のはしご段をあがって行った。八畳の座敷が二つある、そのとッつきの方へはいり、立てかけてあった障子のかげに隠れて耳をそば立てた。
「おッ母さんは、ほんとに、どうする気だよ?」
「どうするか分りゃアしない」
「田村先生とは実際関係がないか?」
「また、しつッこい!――あったら、どうするよ?」
「それじゃア、青木が可哀そうじゃアないか?」
「可哀そうでも、可哀そうでなくッても、さ、あなたのお腹はいためませんよ」
「ほんとに役者になるのか?」
「なるとも、さ」
「なったッて、お前、じきに役に立たないッて、棄てられるに定まってるよ。その時アまたお前の厭な芸者にでもなるよりほかアなかろうぜ」
「そりゃア、あたいも考えてまさア、ね」
「そのくらいなら、初めから思いきって、おれの言う通りになってくれよ」
田島の声は、見ず転芸者を馬鹿にしているような句調ながら、まんざら全く浮薄の調子ではなかった。また、出来ることなら吉弥を引きとめて、自分の物にしたいという相談を持ちかけていたらしい。ことに最後の文句などには、深い呼吸が伴っているように聴えた。その「可哀そうじゃアないか」は、青木を出しに田島自身のことを言っていたのだろうが、吉弥は何の思いやりもなく、大変強く当っていた。かの女の浅はかな性質としては、もう、国府津に足を洗うのは――はたしてきょう、あすのことだか、どうだか分りもしないのに――大丈夫と思い込み、跡は野となれ、山となれ的に楽観していて、田島に対しもし未練がありとすれば、ただ行きがけの駄賃として二十円なり、三十円なりの餞別《せんべつ》を貰ってやろうぐらいだろう。と、僕には読めた。
「あたい、ほんとうはお嫁に行くのよ、役者になれるか、どうだか知れやアしないから」などと、かの女は言わないでもいいことをしゃべった。
「どういう人にだ?」
「区役所のお役人よ――衣物《きもの》など拵えて、待っているの」
僕は隣室の状景を想像する心持ちよりも、むしろこの一言にむかッとした。これがはたして事実なら――して、「お嫁に行くの」はさきに僕も聴いたことがあるから、――現在、吉弥の両親は、その定まった話をもたらしているのだと思われた。あの腹の黒い母親のことであるから、それくらいのたくらみはしかねないだろう。
「どうせ、二、三十円の月給取りだろうが、そんな者の嬶《かか》アになってどうするんだ?」
「お前さんのような借金持ちよりゃアいい、わ」
「馬鹿ァ言え!」
「子供の時から知ってる人で、前からあたいを貰いたいッて言ってたの――月給は四十円でも、お父《とっ》さんの家がいいんだから――」
「家はいいかも知れないが、月給のことはうそだろうぜ――しかしだ、そうなりゃア、おれたちアみな恨みッこなしだ」
「じゃア、そうと定めましょうよ」吉弥はうるさそうに三味線をじゃんじゃん引き出した。
「よせ、よせ!」と、三味線をひッたくったらしい。
「じゃア、もう、帰って頂戴よ、何度も言う通り、貰いがかかっているんだから」
「帰すなら、帰すようにするがいい」
「どうしたらいいのよ?」
「こうするんだ」
「いたいじゃアないか?」
「静かにせい!」この一言の勢いは、抜き身をもってはいって来た強盗ででもあるかのようであった。
「………」
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