逆上して、あたまが燃え出すように熱して来た。
僕は、数丈のうわばみがぺろぺろ赤い舌を出し、この家のうちを狙《ねら》って巻きつくかのような思いをもって、裏手へまわった。
裏手は田圃《たんぼ》である。ずッと遠くまで並び立った稲の穂は、風に靡《なび》いてきらきら光っている。僕は涼風《すずかぜ》のごとく軽くなり、月光のごとく形なく、里見亭の裏二階へ忍んで行きたかった。しかし、板壁に映った自分の黒い影が、どうも、邪魔になってたまらない。
その影を取り去ってしまおうとするかのように、僕はこわごわ一まわりして、また街道へ出た。
もとの道を自分の家の方へ歩んで行くと、暗いところがあったり、明るいところがあったり、ランプのあかりがさしたり、電燈の光が照らしたり――その明暗|幽照《ゆうしょう》にまでも道のでこぼこが出来て――ちらつく眼鏡越《めがねご》しの近眼の目さきや、あぶなッかしい足もとから、全く別な世界が開らけた。
戸々《ここ》に立ち働いている黒い影は地獄の兵卒のごとく、――戸々の店さきに一様に黒く並んでるかな物、荒物、野菜などは鬼の持ち物、喰い物のごとく、――僕はいつの間に墓場、黄泉《よみじ》の台どころを嗅ぎ当てていたのかと不思議に思った。
たまたま、鼻唄《はなうた》を歌って通るものに会うと、その声からして死んだものらの腐った肉のにおいが聴かれるようだ。
僕は、――たとえば、伊邪那岐《いざなぎ》の尊《みこと》となって――死人のにおいがする薄暗い地獄の勝手口まで、女を追っているような気がして、家に帰った。
時計を見ると、もう、十時半だ。しかし、まだ暑いので、褥《とこ》を取る気にはならない。仰向けに倒れて力抜けがした全身をぐッたり、その手足を延ばした。
そこへ何物か表から飛んで来て、裏窓の壁に当ってはね返り、ごろごろとはしご段を転げ落ちた。迷い鳥にしてはあまりに無謀過ぎ、あまりに重みがあり過ぎたようだ。
ぎょッとしたが、僕はすぐおもて窓をあけ、
「………」誰れだ? と、いつものような大きな声を出そうとしたら、下の方から、
「静かに静かに」と、声ではなく、ただ制する手ぶりをした女が見える。吉弥だ。
僕はすぐ二階をおりて外へ出た。
「………」まだ物を言わなかった。
「びッくりして?」まず、平生通りの調子でこだわりのない声を出したかの女の酔った様子が、なよなよした優しい輪廓《りんかく》を、月の光で地上にまでも引いている。
「また青木だろう?」
「いいえ、これから行くの」
「じゃア、早く行きゃアがれ!」僕はわざとひどくかの女を突き放って今夜もだめだとあきらめた。
「もう一つあげましょうか?」かの女は今一つ持っていた林檎《りんご》を出した。
「………」僕は黙ってそれを奪い取ってから、つかつかと家にはいった。
一七
その後、吉弥に会うたびごとに、おこって見たり、冷かして見たり、笑って見たり、可愛がって見たり――こッちでも要領を得なければ、向うでもその場、その場の商売ぶり。僕はお袋が立つ時にくれぐれ注意したことなどは全く無頓着になっていた。
東京からは、もう、金は送らないで妻が焼け半分の厭みッたらしい文句ばかりを言って来る。僕はそのふくれている様子を想像出来ないではないが、いりもしない反動心が起って来ると同時に、今度の事件には僕に最も新らしい生命を与える恋――そして、妻には決して望めないの――が含んでいるようにも思われた。それで、妾にしても芸者をつれて帰るかも知れないが、お前たち(親にも知らしてあると思ったから、暗にそれをも含めて)には決して心配はかけないという返事を出した。
僕があがるのはいつも井筒屋だが、吉弥と僕との関係を最も早く感づいたのは、そこのお君である。皮肉にも、隣りの室に忍び込んで、すべてを探偵したらしく、あったままの事実を並べて、吉弥を面と向っていじめたそうだ。
吉弥はこれが癪《しゃく》にさわったとかで、自分のうちのお客に対し、立ち聴きするなどは失礼ではないかとおこり返したそうだが、そのいじめ方が不断のように蔭弁慶《かげべんけい》的なお君と違っていたので、
「あの小まッちゃくれも、もう年ごろだから、焼いてるんだ、わ」と、吉弥は僕の胸をぶった。
「まさか、そんなわけじゃアあるまい」と、僕は答えた。
しかし、それから、お君は英語を習いに来なくなったのは事実だ。
僕も、これが動機となって、いくらかきまりが悪くなったのに加えて、自分の愛する者が年の若い娘にいじめられるところなどへ行きたくなくなった。また、お貞が、僕の顔さえ見れば、吉弥の悪口《あっこう》をつくのは、あんな下司《げす》な女を僕があげこそすれ、まさか、関係しているとは思わなかったからでもあろうが、それにしては、知った以上、僕をも下司な者に見なすのは知れきっているから、行かない方がいいと思い定めた。それで、吉弥を呼べば、うなぎ屋へ呼んだが、飲みに行く度数がもとのようには多くなくなった。
勉強をする時間が出来たわけだが、目的の脚本は少しも筆が取れないで、かえって読み終ったメレジコウスキの小説を縮小して、新情想を包んだ一大古典家、レオナドダヴィンチの高潔にしてしかも恨み多き生涯を紹介的に書き初めた。
ある晩のこと、虚心になって筆を走らせていると、吉弥がはしご段をとんとんあがって来た。
「………」何も言わずすぐ僕にすがりついてわッと泣き出した。あまり突然のことだから、
「どうしたのだ?」と、思わず大きな声をして、僕はかの女の片手を取った。
「………」かの女は僕に片手をまかせたままでしばらく僕の膝の上につッ伏していたが、やがて、あたまをあげて、そのくわえていた袖を離し、「青木と喧嘩したの」
「なアんだ」と、僕は手を離した。「乳くり合ったあげくの喧嘩だろう。それをおれのところへ持って来たッて、どうするんだ?」
「分ってしまった、わ」
「何が、さ?」僕はとぼけて見せたが、青木に嗅ぎつけられたのだとは直感した。
「何がッて、ゆうべ、うなぎ屋の裏口からこッそりはいって来て、立ち聴きしたと、さ」――では、先夜の僕がゆうべの青木になったのだ。また、うわばみの赤い舌がぺろぺろ僕の目の前に見えるようだ。僕はこれを胸に押さえて平気を装い、
「それがつらいのか?」
「どうしても、疑わしいッて聴かないんだもの、癪にさわったから、みんな言っちまった――『あなたのお世話にゃならない』て」
「それでいいじゃアないか?」
「じゃア、向うがこれからのお世話は断わると言うんだが、いいの?」
「いいとも」
「跡の始末はあなたがつけてくれて?」
「知れたこッた」と、僕は覚悟した。
こういうことにならないうち、早く切りあげようかとも思ったのだが、来べき金が来ないので、ひとつは動きがつかなくなったのだ。しかし、もう、こうなった以上は、僕も手を引くのをいさぎよしとしない。僕は意外に心が据った。
「もう少し書いたら行くから、さきへ帰っていな」と、僕は一足さきへ吉弥を帰した。
一八
やがて井筒屋へ行くと、吉弥とお貞と主人とか囲炉裡《いろり》を取り巻いて坐っている。お君や正ちゃんは何も知らずに寝ているらしい。主人はどういう風になるだろうと心配していた様子、吉弥は存外平気でいる。お貞はまず口を切った。
「先生、とんだことになりまして、なア」と、あくまで事情を知らないふりで、「あなたさまに御心配かけては済みませんけれど――」
「なアに、こうなったら、私が引き受けてやりまさア」
「済まないこッてございますけれど――吉弥が悪いのだ、向うをおこらさないで、そッとしておけばいいのに」
「向うからほじくり出すのだから、しようがない、わ」
「もう、出来たことは何と言っても取り返しのつくはずがない。すッかり私におまかせ下さい」と、僕は男らしく断言した。
「しかし」と、主人が堅苦しい調子で、「世間へ、あの人の物と世間へ知れてしまっては、芸者が売れませんから、なア――また出来ないようなことがあっては、こちらが困るばかりで――」
「そりゃア、もう、大丈夫ですよ」と、僕は軽く答えたが、あまりに人を見くびった言い分を不快に感じた。
しかし、割合いにすれていない主人のことであるし、またその無愛嬌《ぶあいきょう》なしがみッ面《つら》は持ち前のことであるから、思ったままを言ったのだろうと推察してやれば、僕も多少正直な心になった。
「どうともして」とは、実際、何とか工面をしなければならないのだ、「必らず御心配はかけませんが、青木さんの方が成り立っていても、今月一杯はかかるんでしたから――そこいらの日限は、どうか、よろしく」と、念を押した。
「それはもちろんのことです」主人はちょっとにこついて見せたが、また持ち前のしがみッ面に返って、「青木があの時|揃《そろ》えて出してしまえばよかったに、なア」と、お貞の方をふり向いた。
「あいつがしみッたれだから、さ」お貞は煙管をはたいた。
「一杯飲もうか?」もう分ったろうと思ったから、僕は、吉弥を促がし、二階へあがった。
「泣いたんでびッくりしたでしょう?」吉弥は僕と相向って坐った時にこう言った。
「なアに」僕は吉弥の誇張的な態度をわざとらしく思っていたので、澄まして答えた。「お前の目玉に水ッ気が少しもなかったよ」
硯《すずり》と巻き紙とを呼んで、僕は飲みながら、先輩の某氏に当てて、金の工面を頼む手紙を書いた。その手紙には、一芸者があって、年は二十七――顔立ちは良くないし、三味線もうまくないが、踊りが得意(これは吉弥の言った通りを信じて言うのだ)――普通の婦人とは違って丈がずッと高く――目と口とが大きいので、仕込みさえすれば、女優として申し分のない女だ。かつ、その子供が一人ある、また妹がある。それらを引き入れることが出来る望みがある。失敗はあらかじめ覚悟の上でつれて帰りたいから、それに必要な百五十円ばかりを一時立て換えてもらいたいと頼んだ。その全体において、さきに劇場にいる友人に紹介した時よりも熱がさめていたので、調子が冷静であった。無論、友人に対する考えと先輩に対する心持ちとは、また、違っていたのだ。ただ、心配なのは承知してくれるか、どうかということだ。
「もう、書けたの?」吉弥は待ちどおしそうに尋ねた。
「ああ」と、僕の返事には力がなかった。
僕は寝ころんでがぶかぶ三、四杯を独りで傾けた。
「あたいも書こう」と、吉弥が今度は筆を取り、僕の投げ出した足を尻に敷いて、肘《ひじ》をつき、しきりに何か書き出した。
僕は手をたたいて人を呼び、まだ起きているだろうからと、印紙を買って投函《とうかん》することを命じた。一つは、そこの家族を安心させるためであったが、もし出来ない返事が来たらどうしようと、心は息詰まるように苦しかった。
「………」吉弥もまた短い手紙を書きあげたのを、自慢そうだ――
「どれ見せろ」と、僕は取って見た。
下手くそな仮名《かな》文字だが、やッとその意だけは通じている。さきに僕がかの女のお袋に尋ねて、吉弥は小学校を出たかというと、学校へはやらなかったので、わずかに新聞を拾い読みすることが出来るくらいで、役者になってもせりふの覚えが悪かろうと答える。すると吉弥がそばから、
「まさか、絶句はしない、わ」と、答えたのを思い出した。
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「しばらく御ぶさた致し候。まずはおかわりもなく、御つとめなされ候よし、かげながら祝しおり候。さてとや、このほどよりの御はなし、母よりうけたまわり、うれしく存じ候」
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てッきり、例の区役所先生に送るのだと分った。「うれしく」とは、一緒になることが定まっているのだろう。もっとも、僕はその人が承知して女優になるのを許せば、それでかまわないとも考えていたのだ。
そのつづき、――
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「ちかきうちに私も帰り申し候につき、くわしきことはお目もじの上申しあげそうろう。かしく。きくより」
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菊とは吉弥の本名だ。さすが、当て名は書いてない。
「馬鹿野郎!
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