た時、落したんだろう」
「あの狐《きつね》に取られんで、まア、よかった」
「可哀《かわい》そうに、そんなことを言って――何という名か、ね?」
「吉弥《きちや》と言います」
「帰ったら、礼を言っといておくれ」と、僕は僕の読みかけているメレジコウスキの小説を開らいた。
 正ちゃんは、裏から来たので、裏から帰って行ったが、それと一緒に何か話しをしながら、家にはいって行く吉弥の素顔をちょっとのぞいて見て、あまり色が黒いので、僕はいや気がした。

     二

 僕はその夕がた、あたまの労《つか》れを癒《いや》しに、井筒屋へ行った。それも、角《かど》の立たないようにわざと裏から行った。
「あら、先生!」と、第一にお貞婆さんが見つけて、立って来た。「こんなむさ苦しいところからおいでんでも――」
「なアに、僕は遠慮がないから――」
「まア、おはいりなさって下さい」
「失敬します」と、僕は台どころの板敷きからあがって、大きな囲炉裡《いろり》のそばへ坐った。
 主人は尻《しり》はしょりで庭を掃除しているのが見えた。おかみさんは下女同様な風をして、広い台どころで働いていた。僕の坐ったうしろの方に、広い間
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