し食べられないよ」と言って、僕は携えて来た土産《みやげ》を分けてやった。
妻の母は心配そうな顔をしているが、僕のことは何にも尋ねないで、孫どもが僕の留守中にいたずらであったことを語り、庭のいちじくが熟しかけたので、取りたがって、見ていないうちに木のぼりを初め、途中から落ッこちたことなどを言ッつけた。子供は二人とも嫌な顔をした。
「お母さん、箪笥《たんす》の鍵《かぎ》はどこにあります?」僕はいよいよ残酷な決心の実行に取りかかった。
「知りませんよ」と、母は曖昧《あいまい》な返事をした。
「知らないはずはない。おれの家をあずかっていながらどんな鍵でもぞんざいにしておくはずはない」
「実は大事にしまってあることはしまってありますが、お千代が渡してくれるなと言っていましたから――」
「千代は私の家内です、そんな言い分は立ちません」
「それでは出しますから」と、母は鍵を持って来て、そッけなく僕の前に置き、台どころの方へ行ってしまった。
僕は箪笥の前に行き、一々その引き出しを明け、おもな衣類を出して見た。大抵は妻の物である。紋羽二重《もんはぶたえ》や、鼠縮緬《ねずみちりめん》の衣物――繻珍《しゅちん》の丸帯に、博多《はかた》と繻子《しゅす》との昼夜帯、――黒縮緬の羽織に、宝石入りの帯止め――長浜へ行った時買ったまま、しごきになっている白縮緬や、裏つき水色縮緬の裾《すそ》よけ、などがある。妻の他所行《よそゆ》き姿が目の前に浮ぶ。そして昔の懐かしいかおりまでが僕の鼻をつく。
「行って来ますよ」という外出の時の声と姿とは、妻の年取るに従って、だんだん引き締って威厳を生じて来たのを思い出させた。
まだ長襦袢《ながじゅばん》がある。――大阪のある芸者――中年増《ちゅうどしま》であった――がその色男を尋ねて上京し、行くえが分らないので、しばらく僕の家にいた後、男のいどころが分ったので、おもちゃのような一家を構えたが、つれ添いの病気のため収入の道が絶え、窮したあげくに、この襦袢を僕の家の帳面をもって質入れした。その後、二人とも行《ゆ》く方《え》が知れなくなり、流すのは惜しいと言うので、僕が妻のためにこれを出してやった。少し派手だが、妻はそれを着て不断の沈みがちが直ったように見えたこともある。
それに、まだ一つ、ずッと派手な襦袢がある。これは、僕らの一緒になる初めに買ってやった物だ。僕より年上の妻は、その時からじみな作りを好んでいたので、僕がわざわざ若作りにさせるため、買ってやったのだ。今では不用物だから、子供の大きくなるまでと言ってしまい込んであるが、その色は今も変らないで、燃えるような緋縮緬《ひぢりめん》には、妻のもとの若肌のにおいがするようなので、僕はこッそりそれを嗅いで見た。
「今の妻と吉弥とはどちらがいい?」と言う声が聴えるようだ。
「無論、吉弥だ」と、言いきりたいのだが、心の奥に誰れか耳をそば立てているものがあるような気がして、そう思うことさえ憚《はばか》られた。
とにかく、多少の価《ね》うちがありそうな物はすべて一包みにして、僕はやとい車に乗った。質屋をさして車を駆けらしたのである。
友人にでも出会ったら大変と、親しみのある東京の往来を、疎《うと》く、気恥かしいように進みながら、僕は十数年来つれ添って来た女房を売りに行くのではないかという感じがあった。
僕は再び国府津へ行かないで――もし行ったら、ひょッとすると、旅の者が土地を荒らしたなど言いふらされて、袋だたきに逢《あ》わされまいものでもないから――金子《きんす》だけを送ってやることに初めから心には定めていたので、すぐ吉弥|宛《あ》てで電報がわせをふり出した。
二二
国府津では、僕の推察通り、僕に対する反動が起った。
さすがは学校の先生だけあって、隣りに芸者がいても寄りつきもしない、なかなか堅い人であるというのが、僕に対する最初の評判であったそうだ。が、だんだん僕の私行があらわれて来るに従って、吉弥の両親と会見した、僕の妻が身受けの手伝いにやって来たなど、あることないことを、狭い土地だから、じきに言いふらした。
それに、吉弥が馬鹿だから、のろけ半分に出たことでもあろう、女優になって、僕に貢《みつ》ぐのだと語ったのが、土地の人々の邪推を引き起し、僕はかの女を使って土地の人々の金をしぼり取ったというように思われた。それには、青木と田島とが、失望の恨みから、事件を誇張したり、捏造《ねつぞう》したりしたのだろう、僕が機敏に逃げたのなら、僕を呼び寄せた坊主をなぐれという騒ぎになった。僕の妻も危険であったのだが、はじめは何も知らなかったらしい。吉弥を案内として、方々を見物などしてまわった。
僕が出発した翌日の晩、青木が井筒屋の二階へあがって、吉弥に、過日与えた小判の
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