た。
僕の東京の住家は芝区|明船町《あけふねちょう》だ。そこへ着いたのは夜の十時過ぎ――車を帰して、締っている戸をたたいていると、家の前を通り過ぎた人が一人あって、それが跡もどりをして来て、
「義雄かい?」僕の父であった。
「ただいま帰りました」と、僕はあわてて、少しきまりが悪く答えた。きょうは帰っただろうと、それとなく、わざわざ見まわりに来たところなのだろうから、父も随分心配しているのかと、僕のからだが縮みあがった。が、「まア、おはいんなさい」と、戸が明くのを待って、僕は父を座敷へ通した。
妻が残して行った二人の子供のいびきが、隣りの室から聴えている。
僕が茶を命じたら、
「今、火を起しますから」と、妻の母は答えた。
「もう、茶はいりませんよ、お婆アさん」と言っておいて、父は僕に対してすこぶる厳格な態度になり、
「今度のことはどうしたと言うんだ?」
「………」僕は少し心を落ち着けてから、父の顔を見い見い答えた。「このことは何にも聴いて下さんな、自分が苦しんで、自分が処分をつけるつもりですから」
「そうか」と、父は僕の何にも言わない決心を見て取ったのだろう、「じゃア、もう、きょうは遅いから帰る。あす、早速うちまで来てもらいたい」
こう言って、父は帰って行った。
妻が痩せたのを連想するせいか、父も痩せていたようだし、今、相対する母もまた頬が落ちている。僕は家族にパンを与えないで、自分ばかりが遊んでいたように思えた。
僕の書斎兼寝室にはいると、書棚《しょだな》に多く立ち並んでいる金文字、銀文字の書冊が、一つ一つにその作者や主人公の姿になって現われて来て、入れ代り、立ち代り、僕を責めたりあざけったり、讃《ほ》めそやしたりする。その数のうちには、トルストイのような自髯《はくぜん》の老翁も見えれば、メテルリンクのようなハイカラの若紳士も出る。ヒュネカのごとき活気盛んな壮年者もあれば、ブラウニング夫人のごとき才気当るべからざる婦人もいる。いずれも皆外国または内国の有名、無名の学者、詩人、議論家、創作家などである。そのいろんな人々が、また、その言うところ、論ずるところの類似点を求めて、僕の交友間のあの人、この人になって行く。僕は久しぶりで広い世間に出たかと思うと、実際は暗闇の褥中《じょくちゅう》にさめているのであった。持ち帰った包みの中からは、厳粛な顔つきでレオナドがのぞいている。
神経の冴《さ》え方が久しぶりに非常であるのをおぼえた。……ビスマクの首……グラドストンの首……かつて恋しかった女どもの首々……おやじの首……憎い友人どもの首……鬼女や滝夜叉《たきやしゃ》の首……こんな物が順ぐりに、あお向けに寝て覚《さ》めている室の周囲《まわり》の鴨居《かもい》のあたりをめぐって、吐《つ》く息さえも苦しくまた頼もしかった時だ――「鬼よ、羅刹《らせつ》よ、夜叉の首よ、われを夜伽《よとぎ》の霊の影か……闇の盃盤《はいばん》闇を盛りて、われは底なき闇に沈む」と、僕が新体詩で歌ったのは!
さまざまの考えがなお取りとめもなく浮んで来て、僕というものがどこかへ行ってしまったようだ。その間にあって、――毀誉褒貶《きよほうへん》は世の常だから覚悟の前だが――かの「デカダン論」出版のために、生活の一部を助けている教師の職(僕は英語を一技術として教えているのであって、その技術を金で買うように思っている現代学生には別に師事されるのを潔しとしない)を、妻の聴いて来た通り、やめられるなら、早速また一苦労がふえるという考えが、強く僕の心に刻まれた。
しかし、その時はまだその時で、一層奮励の筆をもって、補いをつけることが出来ると、覚悟した。
すると、また、心の奥から、国府津に送る金はどうすると尋問し出す。これが最もさし迫った任務である。しかし、それもまた、僕には、残忍なほど明確な決心があった。
それがために、しかしわが家ながら、他家のごとく窮屈に思われ、夏の夜をうちわ使う音さえ遠慮がちに、近ごろにない寂しい徹宵《てっしょう》の後に、やッと、待ち設けた眠りを貪《むさぼ》った。
二一
子供の起きるのは早い。翌朝、僕が顔を洗うころには、もう、飯を済ましていた。
「お帰りなさい」とも、何とも言わないで、軽蔑《けいべつ》の様子が見えるようだ。口やかましいその母が、のぼせ返って、僕の不始末をしゃべるのをそばで聴いていたのだろうと思われた。
僕が食膳に向うと、子供はそばへ来て、つッ立ったまま、姉の方が、
「学校は、もう、来月から始まるのよ」と言う。吉弥を今月中にという事件が忘れられない。弟の方はまた、
「お父さん、いちじくを取っておくれ」と言う。
いちじくと言われたので、僕はまた国府津の二階住いを冷かされたように胸に堪《こた》えた。
「まだもう少
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