で、高い絶壁の上に、さかさまなりにくねつて出て居る松の枝があつたので、それを渡つて、今や身は幾仭の空中に氣魂を奪はれようとしたとたんに、幽かに僕の心耳に響く聲があつた。眼を開いて谷底をうかがふと、それは細い流れの潺々《せんせん》[#入力者注(5)]たる響きであつた。何だか、自分は夢を見て居た樣な氣がしたが、その谷川へ眞直ぐにいばら、茅の根などを辿つて下りて行つて、清い水を一口飮んだ時は嬉しいやら、悲しいやら、兎に角一生の渇を癒した氣持ちがした。この時から、僕は生命を重んずる心が起つたのである[#「この時から、僕は生命を重んずる心が起つたのである」に傍点]。どうせ死んでも、何かに生れ變るのであるから、自分の心に神はなくなつても、戀は遂げられなくつても、現世に苦痛があるなら、來世にもあるに相違ない[#「現世に苦痛があるなら、來世にもあるに相違ない」に白丸傍点]から、寧ろ今の僕に執着して、活動しようと思ひ返してしまつたのである。
神にも苦痛があるとは、たしかカライルが喝破したのである。苦とは何かと問ふのは、既に道學者の口吻か、宗教家の方便かを眞似て居るので、すべて僞善者の態度と云つて善い[#「苦とは何か」〜「態度と云つて善い」に傍点]。苦痛の絶えないのは事實である。人間は弱いものであるから、失戀だの、絶望の塲合に立ち至ると、直ぐ死んでしまいたい氣になるものだが、死んでも死ねないものが、それにつき纒つて居る苦痛ばかりを斷つてしまへると思ふのは間違ひである。全體、自殺[#「自殺」に白三角傍点]といふことは、自我の外にまた非我なるものを設けてから出來る芝居であつて、この表象的悲劇[#「表象的悲劇」に傍点]の裏面から見ると、これがまた裏面にある表象の意味して居るところと同じであるのだ。かういふ譯からして、シヨーペンハウエルの斷言した通り、僕等は苦痛をそのまゝ男性的勢力を以つて辛抱するより外はないのである。自我の最も發揮するのはかういふ時だ[#「自我の最も發揮するのはかういふ時だ」に白丸傍点]。フレデリツキが周圍の外敵に追迫されて、自分の國どころか、自分の身の存在に窮し、腰の劍を拔いて、わが身でわが身を刺さうとしたが、たゞこの危急な瞬間に堪へた時、既に大王たる資格は定つて居たのである。然し、これは絶望と苦痛とがなくなつたのではない、僕があとから云はうとする文藝的慰籍を得たからであるのだ。
(十二) 意志と現象
自我の發揮して來るのは、生きたいと云ふ本能の然らしめるところであつて、本能の内部的必然力を運命と云つても善いし、また意志と見ても善い。
僕の云ふ運命を、活動の方面から見ると、意志である[#「僕の云ふ運命を、活動の方面から見ると、意志である」に白三角傍点]。これは、その發音に於いて同じの、而も、實物は頑強に見えるが、表象的には透明なことがかの捕へやうのない夢と等しい鑛物に異なつて居ないのである。スピノーザは、空中を飛ぶ石にして、若し意識があつたら、必らず自己の意志を以つて飛揚して居ることが分るだらうと云つた,シヨーペンハウエルは之を云ひ換へて、石を投げるのは動機であつて、その重力、個體性等は意志だと説いたが、更らに重力の本性を以つて物體固有の嫌忌や慾望の念とする、オイラーの語に注意してある。いづれも僕の云ふ表象の轉換を證明して居る譯で――意志の活動を辿つて行くと、僕等は野中の一つ岩を抱いても、心靈の熱を取ることが出來るのである[#「意志の活動を」〜「出來るのである」に傍点]。岩から見れば、僕等もそれ/″\岩に見えるのだらう――萬物はこの轉換の感じがあるので、生命もある――この表象的轉換がなくなつたら、宇宙の外形と内部とは忽ち絶滅してしまうことが想像せられるのである[#「この表象的轉換が」〜「想像せられるのである」に白丸傍点]。
さすが、シヨーペンハウエルは印度思想を知つて居ただけ、その云ふところの意志も面白く解釋が出來る。例の華嚴經中の譬に比べて云ふと、萬物はすべて十、乃ち、意志を本性として居るので、如何に極小な本性でも――乃ち、十から云へば、五、六、四又は一中の十,意志から云へば、最小最低の現象でも――若し之を世界から消滅さすことが出來るとすれば、同時に全世界の消滅が出來ることになるのだ。僕等の本能が死を好まないのは、自然の結果である[#「僕等の本能が死を好まないのは、自然の結果である」に傍点]。火から熱を取れば火もなくならうし、熱から火を取れば熱もなくなる,と云つて、火即熱の實體を別に持つて來るのは、假定と云はなければならない。僕の運命とか、生命とかいふものは、科學者のエネルギー又は宗教家の神などの樣な、假定の永存實體ではない、たゞ表象の轉換移動の個處個處[#「表象の轉換移動の個處個處」に傍点]を連ねて見たばかりで、その間に意志もあり、自我もあるのだから、表象その物を離れては宇宙は全滅するのである。
僕のは、物質的並に精神的の現象が互ひに相轉換する表象として存在するといふのである[#「僕のは」〜「いふのである」に傍点]から、現象唯一論と同一視されては困るが,また、それと反對の方面で、シヨーペンハウエルは、井上博士の客觀主觀の立論と同じ缺陷を生じ、意志の眞實體なるものを定め、その物は時空と現象以外に存ずるので、多なることを得ないと云つた。これが早や無駄でなければ、この種の傾向がある論者の止むを得ない窮策だが,かう云ふことになると、その眞實體なるものが現象界に權化するには、種々の段階があつて、下は木や石から上は人類の樣なもので、高等なものが段々下等なものを制服するに從つて、完美な理想が現はれて來ると云はなければならなくならう。これは矢張りプラトーンのイデヤ想起説から來たので、スヰデンボルグ、エメルソン、その他すべての理想論者が、僕等を誤まる[#「これは矢張り」〜「僕等を誤まる」に傍点]僞善的論法[#「僞善的論法」に白三角傍点]と云はなければならない[#「と云はなければならない」に傍点]。近頃、渠等の口吻を眞似て、理想とか向上主義とか※[#「※」は「口へん+斗」、読みは「さけ」、346−1]ぶものが多い,然し、これは最も善を僞はるもの等で、僞善者の最下級である、道學的根性の最も嚴密に墮落した標本である。その古びた師匠とまだ固つて居ない末流とに論なく、渠等はすべてあるべからざる善惡を規定して、自分の怠慢と無氣力とを裝ふばかりである。
僕は渠等に向つて、眞率におのれの立脚地を究めたなら、意志その物も無目的な表象の所爲[#「意志その物も無目的な表象の所爲」に白丸傍点]であることが分ると知らせたいのである。
(十三) 善惡の否定
性善性惡の爭論はもう古臭くなつてしまつた。僕の論旨から云ふと、宇宙は根より水を吸ふ時は草木である、口より食を入れる時は人畜である[#「僕の論旨から云ふと」〜「人畜である」に傍点],性善を標榜し、または性惡を主張する時は、その間ばかりは、孟子又は荀子の樣に、内容もない善惡の別塊である。善惡混合を云ふ時は、またその間ばかりは、善惡の混合物である。假りに僕に内外の區別があるとして、その内外からやつて來る必然の前には、君子もあらう筈はない、小人もあらう筈はない。
存在は盲目で、道徳的に云へば、無目的である[#「存在は盲目で、道徳的に云へば、無目的である」に白三角傍点]。大底の哲學者と同樣、シヨーペンハウエルも亦宇宙に意匠の統一があると云つたが,哲學者の所謂統一とは、僕に於ては表象の轉換する工合をいふので、物と物との符合して居るやうに見えるのは、はじめから割り符を與へられて居るのではない[#「哲學者の所謂統一とは」〜「居るのではない」に傍点],その時だけそう見えたので、偶然の思ひ付きである。――尤も詩には之が非常な意味を以つて來る――たとへば、田鼠が地下に穴を堀ると、たゞ一直線に堀つて行くのでなく、追はれた時の用意に、左右にところ/″\隱れ塲を拵へて置く。また、雲雀が空から下りる時、眞直ぐに地下の巣には行かないで、それから少し隔つたところへ落ちる。兩者の賢いのは、よく似て居るやうであるが、これが果して神の與へた割り符であらうか。北國と南海との片田舍で、同じ姓名の人が出來る、これが果して本能の統一的作用の然らしめたのであらうか。猿の手の親指は外へ向いて居る、人間のは内へ向いて居る、これが造化に意匠のあるところだと云へようか。そうだと答へるものは、狹い範圍の智識で安眠を貪らうとするのである。渠等に深遠な神秘を説いたところで、到底之を味へるものではない。無目的な事物を善といふ方便に使つて、それで滿足して居るに過ぎない[#「無目的な事物」〜「居るに過ぎない」に白丸傍点]。スヰデンボルグの熱烈な科學的研究が、つひに頑迷な宗教家を生み出すに至つたのは、從來の習慣的宗教並に哲學の到底度すべからざるを證明して居るのである。
莊子の『齊物論』には、『言いまだ始めより常なるにあらず』と云つてあつて、常なるものがあれば、常ならざるものが豫想出來るし、物に始めがあれば、その始めあるの始めがなければならない譯である。無限なるものに目的のあらう筈はない[#「無限なるものに目的のあらう筈はない」に白三角傍点]、况んや向上とか墮落とかいふのは、却つて造化を揣摩《しま》[#入力者注(5)]し過ぎた話である。老莊の徒でさへ、尚《なほ》道なる物を絶對として、物外に存ぜしめたが、絶對とは終極又は原始の意で、それが到達又は規定せらるべきものであるなら、もう世界は滅亡したと同じで、そんな死物同前なものに住する必要がなくならう[#「絶對とは」〜「必要がなくならう」に傍点]。元良博士、曾てどこかの演説又は雜誌で、『道』といふ物を解釋して、道とはたゞ人の歩む跡の如しと云はれたと、僕は記憶して居るが、間違ひがなければ、これは道學的習慣を離れた卓見と云はなければならない。――僕等はエメルソンなどの所謂物質と理法と心靈なるものを循環して、――實は同じ物であるから――行けども/\目的地を發見することが出來ないのである。
(十四) 表象の効果
僕等の意志は運命と同じで、盲目である,だからいつも手を虚空に擧げて、何か觸れるものを求めて居るので、その觸れるものがあつたと思へば、それがまた自分の意志であるから、仕方がない。たとへば、病床にあつて、自分の枕をして居るのが分らないで、何だか暗いところへ引つ込まれるやうな氣になつて來るから、何か縋るものをとうめくとたん、握つたものは矢張り自分の手である。その手も運命の黒水に浸つて、段々なへてしまつたから、ああ、これで幸ひ、安樂淨土に入ることが出來たのかと思ふと、そうでもない――死んだと思つたのは、意志がまた他の有限物に變體したので[#「死んだと思つたのは、意志がまた他の有限物に變體したので」に傍点]、現世から他界に齎らす土産は、絶對不易のものではない[#「現世から他界に齎らす土産は、絶對不易のものではない」に白丸傍点]、たゞ神秘な表象ばかりで[#「たゞ神秘な表象ばかりで」に白三角傍点],その身も亦意外の表象であつたことに氣が附くと、以前に生れた時と同じ樣に、何だか嶄新な樣な、恐ろしい樣な、それで未練の絶えない樣な、あかるくツても暗い樣な岡に立つて、悲風萬里より來たるかの心持ちがしよう。この時、教訓もなければ、眞理もない、たゞ新らしい自我といふものが深い底から目を覺まして來て、美はしい活動の姿を見せるのである。これが表象の與へる効果[#「表象の與へる効果」に白三角傍点]である。
若し宇宙に生命が滿ちて居るとしたら、この表象が溢れて居るのである[#「若し宇宙に」〜「居るのである」に傍点]。エメルソンとスヰデンボルグとは、自然の位置を大心靈の中に定めてから、自然の理法を悟るに從つて、自然は消えて行つて、心靈ばかりが見える樣に云つたが,それでは、また、心靈の理法を悟るに從つて、心靈は消えて行つて、心靈以上のものか、またはもとの自然かが見えて來る筈だ。詩人ゲーテが明暗の融和を以つて色の原理を説明したのはもう
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