無意識で、運命のあてがふ結婚を待つて居るのだ」に白三角傍点]。最も善く神秘の面影を今日まで傳へて居るのは、婦人の外にないといふ論である。
 僕はスヰデンボルグが瓢箪の上部で、メーテルリンクがその下部だと云つた。以上の愛論でも分る通り、前者は神秘のもとで、後者はその膨張である。もとが偉大に解釋が出來れば、末も亦偉大になるわけであるが、それにはエメルソンといふくゝりもあるので、僕に取つては、まだ/\それ位の説では滿足が出來ないのである。然し、先づ、エメルソンの愛論をも方づけてしまはう。
 エメルソンには『愛論[#「愛論」に白三角傍点]』がある。スヰデンボルグの愛論が、プラトーンの婦人共有論と同樣、實世間に行はれないからと云つて、一種穩健な説を建てゝ居る。プラトーンの愛、スヰデンボルグの所謂夫婦の愛は、一つの方便を云つて居るに過ぎない。人が相見、相慕ひ、相婚することになれば、肉情は完全に統一をして、靈はそのうちに一つとなり、肉體はまた之によつて靈化される[#「肉情は完全に統一をして」〜「靈化される」に白丸傍点]。神聖な愛を見とめるに從つて、男女は物質的分子を離れて向上する。僕等は愛を以て訓練されるので[#「僕等は愛を以て訓練されるので」に傍点]、愛すなはち人格の神化は、日々非人格になつて行く[#「愛すなはち人格の神化は、日々非人格になつて行く」に白三角傍点],相近づいたのは、愛すべき徳の表號であつて、その表號は段々蝕沒して行くが、その間にも度々隱現して、兩者を絶えずつなぐ引力を持つて居るのである[#「相近づいたのは」〜「持つて居るのである」に傍点]。然し、その表號はしまひには實體に歸してしまうのであるから、兩者の胸中に燃えて居た敬意は段々薄らいで行くに定まつて居るが、互ひに之を辛抱して、善い事をして居ると思つて滿足しなければならない。眞の結婚とは知力と心情との年々清淨になつて行くことである[#「眞の結婚とは知力と心情との年々清淨になつて行くことである」に白三角傍点]から、男女、人格、偏癖等を忘れてしまつて、徳と智慧とに進入するが善い。人には、愛情が主權を握つて、幸福は人間に由らなければ受けられない刹那もあるが,健全な時は、人の心には、燦然たる星の夜空も、雲の樣に湧き出る愛や恐怖も、その有限的性質を失つてしまつて、僕等は完全圓美な靈界に這入《はい》つて居るのである[#「健全な時は」〜「居るのである」に傍点]。
 以上三者のいづれにも神秘の面影は存じて居るが、エメルソンは無理にも、神秘の眞中を沈着な哲理觀を以つて引き締めて居るのだ。三者とも、各々その天才の向ふところに從つて[#「三者とも、各々その天才の向ふところに從つて」に傍点]、神秘的趣味を與へるのは事實であらう[#「神秘的趣味を與へるのは事實であらう」に白丸傍点]。スヰデンボルグは宗教家である、エメルソンは哲學者である、メーテルリンクは詩人である。從つて、同じ理法を論じても、甲は靈的理法、乙は知的理法、丙は未知の理法と云つて居るし,愛論に於ても、甲は敬愛を、乙は親愛を、丙は戀愛を説いて居る。
 これからいよ/\自説に移らう。

 (八) 神秘の語義

 自説に入るに先立つて、神秘といふ語の意義[#「神秘といふ語の意義」に白三角傍点]を定めて置かなければならない。木村鷹太郎氏の如きは、『最も明瞭なる思想は、最も高等なる頭腦にして、始めて之に達し得るなり』と、頭からかう云ふ語の存在をも否定しようとするし、高安月郊氏も亦、『メーテルリンクの劇詩論を讀む』に於て、『感情は既に神秘の殿に跪くも、意識は更にその帳に入るの時あるべし』と云つて、寧ろ白耳義《ベルギー》[#入力者注(5)]の劇詩家が數歩を智識的方面に轉ずることを望んで居るらしい。この二友の見解は、その思想の傾向の然らしむるところとして、僕はまた僕の立ち塲から云ふ。英語のミステリなる言葉は、希臘語のミオー(Μυω)、目を冥《おほ》ふ[#「目を冥ふ」に傍点]といふことから出て居るので、希臘の古代に神秘、乃ちミステーリオン(Μυστη´ριον)と云へば、宗教の儀式で――たとへば、エレウシスに祭つてあつた※[#「※」は「穀」の「禾」の部分が「釆」、読みは「こく」、340−24]物の母神、デーメーテールの祭りの樣なもので、その知り難い秘密を教へて貰らうことを意味して居た。それから、段々、奧義のあるものは何でもこの語を以つて呼ぶことになつたので、エメルソンの説の通り、廣い意味から云ふと、冥想を生命とする詩人、哲學者、宗教家などはすべて神秘家であるのだ[#「廣い意味から云ふと」〜「神秘家であるのだ」に傍点]。然し、今までに論じて來た人物などは、特に理知を超絶して、一種不可思議な、人間の言語を以つて説き難い情趣に觸れたり、また觸れようとしたところがある[#「然し」〜「觸れようとしたところがある」に白丸傍点]ので、普通の思索家から別けて見なければならない理由がある。『代表的人物』中のスヰデンボルグ論には、ソークラテース、プロチノス、ベーメ、バンヤン、フオツクス、パスカルなども、一たび神秘的恍惚の境を經たことがあつて、その一轉機には必らず[#「一たび神秘的恍惚」〜「必らず」に傍点]病的現象[#「病的現象」に白三角傍点]が伴ふ[#「が伴ふ」に傍点]ものだと云つてあるが、そういふ病態は――たとへ、學説の上だけから云つても――僕等の恐れるところではない。生命さへ握つて居れば、強盜に會つても恐れるに及ばないではないか。近世になつてからは、神秘といふ語は、どうせ智識の平凡化に反對して居る意味だから、抱月氏の所謂『智識を絶し、若しくは智識を消したる形』に、生命さへ這入つて居れば善いのである[#「近世になつてからは」〜「善いのである」に白丸傍点]。乃ち、知力の集中情化である。
 メーテルリンクは『正義の不可思議』(これは未だ僕は見ないので上田敏氏の譯による。)といふ論文に於ても、本能の威力と心中の正義衝動とを同一であるか、どうか、疑問にしてある。然し、神秘なるものがいづれ分つて來るものだとすれば、別にかれこれ云ふべき程のものではなからう。自然主義[#「自然主義」に白三角傍点]が眞直ぐに進んで行く間に、いつも神秘なるものが感じられる[#「が眞直ぐに」〜「感じられる」に傍点]のであつて、これは何も不可解を一時面白がるのではない、自然と本能との奧には、とこしなへに知力の及ばない神秘性が潜んで居るのである。僕が先きにメーテルリンクとは思想上の兄弟分だと云つたが、それは僕等の出て來たところが一つだといふ意で、飽くまでも同じ事を云つて居るといふわけではない。それは、これから説くことで分るだらうと思ふ。
 僕がこれから云はうとするのも、議論としては、どうしても知力の働きを借らなければならないが、科學と知力とばかりを手頼りとして居る人々の『明瞭』だと思ふ範圍では、まだ/\滿足が出來ないのである。これは、何も思想力が弱いとか、頭腦が不良だとか云はれるべきではない、寧ろ渠等よりも奮發して、自我の覺醒[#「自我の覺醒」に白丸傍点]に入らうとするのである。

 (九) 自然即心靈

 萬法は詮じ詰めれば多と一とになると、プラトーンも云つてあつて、スヰデンボルグはその初め、科學的熱誠を盡して、多のうちに一なる符合を見出さうとした。シエリングは、あとではベーメの思想を受けて、全く神秘的になつてしまつたが、その前には無差別哲學を主張して、多なる自然界が一なる心靈界を生み出すのだと云つた。シヨーペンハウエルは之を上から見て、一切の無機的、有機的世界の自然力には、たゞ一個の意志が客觀の形、乃ち、表彰を以つて表現して居るので、その間には意匠の統一がある――相反して居るやうに見えるのは、同一の力がその方向を違へて居るに過ぎないのだと説明した。
 然し、あまり西洋のことばかりを云はないで、わが東洋の方に向いて見ると、シヨーペンハウエルの云つたやうな事實は、第一、神秘的な易哲學[#「易哲學」に白三角傍点]にもあつて、陰陽といふ抽象的法則となつて居るのである。スヰデンボルグの脊骨の話の樣に、この法則が宇宙の萬物に一貫して居るので,たとへば、君と臣と相對する時はそれが陰陽であるが、その孰れかゞ男性として女性に對すると、またそれが陰と陽とである。男女を人類として禽獸に對すると、またそれが陰陽である。人獸を一括して天に對すると、また陰陽の形が出來,天と地とを相對せしむると、また同じ形が出來る。一物を分析しても陰陽はあるし、具體的物象を見てもまたこの關係がある。推移、進動、行爲などに於ても、この法則は流行して居るのである。ピタゴラスの哲學が數を以つて宇宙の萬有を説明しようとした通り、易にもこの數の觀念がつき纒つて居るので、僕から見れば、この數は乃ち僕等の免るべからざる運命の樣なものと見て善い[#「僕から見れば」〜「見て善い」に白丸傍点]。
 この運命の上に隱現する萬有はどう云ふ風に解釋が出來るか――莊子は『道いまだ始めより對あるにあらず』云々と云つて、甲と云へば必ずその甲に非ざるものを豫想して居るので、エメルソンが自然を論ずるのに、我と非我とを別けた方便の樣なものである。邵子《せうし》[#入力者注(5)][#入力者注(12)]に至つて、面白い言を云つた、『自然の外、別に天なし。』――邵子は易を祖述して、一派の哲理を考へ出した人で、人物もなか/\面白い,天津橋上で杜鵑《ほととぎす》[#入力者注(5)]の聲を聽いて、王安石新法の事變を豫言したことがある。今、假りに邵子の言を以つて問題を起し、僕の考へを解釋して行かう。『自然の外、別に天なし』とは、自然が乃ち天だといふのか、天が自然のうちにあるといふのか――換言せば、物質ばかりだといふのか、心靈のみあるといふのか、或は又物質と心靈とが同一だといふのか。エメルソンは、邵子の説と同じで、唯心論を取つたが、その實、運命なるものを脊にして、この三問題を輪廻して居たのである[#「エメルソンは」〜「居たのである」に傍点]。
 この問題は、佛教では甘く説いてある。大乘佛教の極致ともいふべき法界縁起説[#「法界縁起説」に白三角傍点]で――これに就ては、天台と華嚴とで常に爭論があつたが――萬法はこれ一、一はこれ一切だといふ。たとへて云ふと、易では二、揚子は三、邵子は四の數を以つて秘訣とした通り、華嚴經では、十の數を以つて説明の鍵として居る。十は圓滿無缺の數であつて、之を本位として、十一以上は外縁に從つて増加したもの、十以下はまた外縁に從つて※[#「※」は「減」の「さんずい」の部分が「にすい」、読みは「げん」、341−45]却したもの、増※[#「※」は「減」の「さんずい」の部分が「にすい」、読みは「げん」、341−45]の違ひはあるが、十の本位を離れないから、そのまゝ圓滿だと云ふのだ。それで、六七八の數も、百千萬の數も、共に圓滿である通り、一切の現象は、之と同じ關係で、皆圓滿である――大海とその一滴とは、共に完備して居る全體であるから、それで結合しても亦全體となることが出來る[#「大海とその一滴とは」〜「出來る」に傍点]。――エメルソンが『一滴の水は海の具性はあるが、暴風を現はすことが出來ない』と云つたのは、差別の方面を見た時である。
 これは、マクロコズム、大宇宙とマイクロコズム、小宇宙、即ち大我と小我の説と同じであつて、この圓滿な全體と圓滿な部分とが相融合して居るところを眞如といふ。之を鏡に例へて見ると、華嚴は表面から見て、萬法は一心から起ると説き,天台は裏面から見て、一念にも三千の法があるといふ。井上博士が、その著『認識と實在との關係』に於て、『若し一たび是等一切の關係は、絶對的に之れあるにあらず、即ち皆もと否定すべきものなることを看破せば、唯一の觀念を惹起し來らん』と云はれたところを、そこだけで見れば、華嚴の樣に一如に偏して居る我執だと天台派は云ふだらうし,華嚴派から云へば、また、天台は諸法の實相を稱へて、煩惱即菩提と説くので、その眞如なるものは純全でないのだらう。
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