て來ると、世界の歴史までが何だか重箱の中へ這入つてしまう樣に見えるではないか[#「表象主義もかう極端に」〜「見えるではないか」に白丸傍点]。
 エメルソンが『最も抽象的眞理は最も實際的なものだ』と云つた通り、スヰデンボルグがかう神秘的に又抽象的になつてからは、却つてその教へは單純で、卑近なものになつてしまつた[#「スヰデンボルグが」〜「卑近なものになつてしまつた」に傍点]。物質と心靈とを別けるにも、善惡より外はなくなつてしまつた。惡事を罪として避けるものは心靈的になる、然らざるものは肉的である――信仰、眞理、貞節、眞率等は前者に屬し、殺人、姦淫、偸盜、僞證、色慾等は後者のものである。後者を去つて、前者に附くには、理性と自由意志[#「理性と自由意志」に傍点]とを以つて、非常に奮鬪しなければならない。然し、理性は思想を導くばかりだが、意志は理性を導くことが出來る。その意志が向上しなければ、根本的に心靈と合一することは出來ない。かう云ふのが『生命の教義』に云つてあるところだが、宗教的に考へたら、これ以上のことは別に云へないだらう。耶蘇は『女を見て色情を起したるものは、その心既に姦淫したるなり』と云つたが、スヰデンボルグはこの意から推して、最も極端に、又最も嚴密に、善惡の區畫をつけたのである。僕が跡で云はうとする説によれば、然し、女を見て色情を起したからつて、何の罪でもないことになるので、渠とは丸で反對である。
 要するに、スヰデンボルグは、プラトーンの樣に寛衣を着た學者ではない[#「要するに」〜「學者ではない」に傍点]、赤裸々の實際家であつただけに、神秘家として見れば大變威嚴のあつた人である[#「赤裸々の」〜「人である」に白丸傍点]。――先生と呼んで近寄ることは出來ないが、遠くから之を望んで崇敬すべき勢ひがある。それで、その輪廻説[#「その輪廻説」に白三角傍点]でも、昔は希臘の神話にも見え、プラトーンの想起説にも附隨して居るが、すべて客觀的であつたのが――尤も佛教では、消極的ながらも主觀的になつて居る――スヰデンボルグに至つて、意志に依つて如何ともなる積極的の主觀的となつた。人があつて、千年目にその靴を食ひ、その祖母と結婚したとすると、必らずまた千年目には、靴を食ひ、祖母と結婚するものがあるに違ひない[#「人があつて」〜「あるに違ひない」に傍点]――否、人は各自の家と國とを造るのである。渠の考で云へば、犬の樣な所業をする人は既に犬と化して居るので、幽靈の樣な瞹眛な言葉を吐くものは既に幽靈となつて居るのだ。從つて、神を學ぶものは既に神である筈だが、これはユニテリヤンから出たエメルソンにはまだ許されようが、スヰデンボルグには古來の耶蘇教的形式があるので、そこまでは云へなかつたのだらう。然し、メーテルリンクが云つた樣に、『僕等はかうして、一度ならず、二度ならず、生れられる,而して、生れ更る毎に段々と少しは神に近づくのである』とは、スヰデンボルグも同じ意見であるだらう。
 兎に角神秘なるものを科學的に説明しようとするのは、再びスヰデンボルグの徹を踏むに過ぎない[#「兎に角神秘なるものを」〜「踏むに過ぎない」に白三角傍点]。近頃姉崎博士が頻りに之に科學的根據を與へようとつとめられる樣だが、その解釋が出來る位なら、神秘は神秘でなくなつてしまう。スヰデンボルグは、最初に神秘的本能を科學によつて滿足させようとしたが、それにはおのづから限界があつて失敗した。それで、哲學の方面ではどうかと云ふに、エメルソンの論と同樣、系統が立たない。その熱心の極度は全く宗教的となつたが、折角自由自在な表象の範圍を、ベーメと同樣、無殘にも、教會といふ形式の用具にしてしまつたのである[#「その熱心の極度は」〜「用具にしてしまつたのである」に傍点]。人物から云へば、その首を銀河に洗ひ、その足は固く地獄の床を踏んで居た大人物だが、惜しいかな、在來の宗教が仇となつて、古木の朽ちた樣に倒れてしまつたのである[#「人物から云へば」〜「倒れてしまつたのである」に白丸傍点]。
 今日歐洲でのスヰデンボルグ派の景况は知らないから云はない。米國では、ボストンなどにこの派の出版會社があつて、頻りに渠の大小の册子を出版するが、一向に振はない樣だ。日本にも横濱へ一度この派の教師が來て居たことがある。近頃米國から十年目に歸朝した友人の經驗談を云ふが、西部からボストンへ行つた時、紹介状を貰つて居たので、一人の牧師を訪問した。すると、『新教會』と看板が出て居たので、少し不思議に思つて這入つて見ると、それがスヰデンボルグ派の教會であつた。この友人は、僕がエメルソンを讀んで居た頃から、スヰデンボルグの事は知つて居たので、面白半分にその老牧師の話を聽いて居ると、例の『物に二方面がある』と開祖が云つたと云ひ出したので、そんなことはどこでも云ふから珍らしいことはないと笑つたが、如何にも人物が温厚なので、時々頼れて日本の事を演説してやつたさうだ。暫く經《た》つと、こゝへ紹介をして呉れた友人から手紙が來て、讀んで見ると、お前は同派に改宗する見込みがあるさうだが、そんなつもりで紹介したのではないと書いてあるので、これは不思議だ、自分もそんなつもりではないのにと思つて、出した返事が面白い――温厚な老人の頼みがあるので、時々日本の事を演説などはして居るが、先づ當分は改宗の見込みはないと思つて呉れろ。『宗教は偉人の形骸である[#「宗教は偉人の形骸である」に白丸傍点]』とカライルは云つたが、この樣なあはれな状態に墮落したら、他の宗派と同樣、徒らに信者の數をむさぼる餓鬼道である。
 これから、スヰデンボルグ、エメルソン、メーテルリンク三者の愛論を述べて、三者の立ち塲と特色とを比較し、それから自説を述べることにしよう。

 (七) 三者の愛論

 今、スヰデンボルグ、エメルソン並にメーテルリンクの愛に對する論を比較して見ると、三者の特色もよく分るし、また後に云ふ僕の所論が渠等とどんなに異同があるかも明かになるだらう。
 ナポレオンが法律を制定した時、これで以つて人間界の事件はすべて網羅し得たと思つたところが、あとからどし/\その規定外の事が出て來た。カントが十二個の範疇を設けて、悟性上のいろんな概念を統一しようとしたが、渠の思つた通り、それで完全不易な組織が立つわけではなかつた。然し、哲學に系統が立たないからと云つて、僕から云へば、耻づべきことではない[#「然し」〜「耻づべきことではない」に傍点]。それだから、プラトーンにいくら不明なところ、缺陷の點があるにしろ、最古の大哲人でもあり、また諸問題の提出者、解釋者として、詩に於けるホメーロスと同樣、誰れにでも讀まれて居るではないか。殊に愛の問題などになると、乾燥な頭腦で論じたものは、理窟がどんなに附いて居ても、大理石の婦人像と同じで、味ひがないのである。順序として、先づプラトーンの論[#「プラトーンの論」に白三角傍点]を簡單に云つて置くが、渠のイデヤ想起説に據ると、僕等は本性からイデヤを知らないのではない、たゞ忘れて居るのであるから、機に應じて之を想ひ起す、その最も切實なのがエロース(ερωσ)、乃ち愛である。それには階段があつて、形體の美にあこがれるのは普通の戀、然し最高のは眞善美その物を慕ふ知力的究理心である。所謂プラトーンの愛[#「所謂プラトーンの愛」に白丸傍点]。渠の知力なるものは、輪廻的修養の土臺となつて居るだけ、道徳的に見られるから、そういふ説も立つのであらう。
 スヰデンボルグはこの説を自分の天才に消化して、『コンジユガルラブ[#「コンジユガルラブ」に白三角傍点]』(夫婦の愛[#「夫婦の愛」に白三角傍点])を書いた。プラトーンの『宴會篇』に當るものだ。心靈は向上的であるから、その發表する愛情又は友情は自然と刹那的のものである[#「心靈は」〜「刹那的のものである」に白丸傍点]。――この刹那的といふことは僕の説にも大切なものだが――愛するといふは同一の眞理を見て居るといふこと[#「愛するといふは同一の眞理を見て居るといふこと」に傍点]で、兩者の一方が一段うへの眞理に目を轉ずると、そのまた一方との關係は絶えてしまうことになる。それで、前者は自分の新たに見る眞理と同一のを見て居るものと一つになるのだが、それも亦向ふの方が一段高くなると、棄てられてしまうのである。人の性根は一定不動のものではない、心の状態に從つて、男ともなるし、また女ともなる[#「人の性根は」〜「また女ともなる」に白三角傍点]――慕はれたのが男、慕ふのが女で、僕等は慕ひ、慕はれながら、乃ち、かたみに男女と變性しながら、向上するのである[#「僕等は慕ひ」〜「向上するのである」に傍点]。その果《はて》は心靈の極度なる神に達して、神は花聟であるし、僕等は花嫁であるのだ。天は對を許さないから、僕等の状態は小い心靈全體の交通となるわけである。聖書の『天使は嫁がず、娶らず』を説明したのであらう。
 次に、メーテルリンクはどうかと云ふに、その『婦人論』[#「その『婦人論』」に白三角傍点]を見れば分る。心靈は、何萬年も先きから、愛せらるゝのを待つて居る[#「心靈は」〜「待つて居る」に白丸傍点]ので、愛の油さへそゝげば、その靈は無言の暗處から跳び出て來るのである[#「ので、愛の油」〜「來るのである」に傍点]。油を注ぐものも、注がるゝものも、はじめから豫定されて居るのだ。それは、必らずどこかで一度相見たことがある靈と靈とであるからである。たとへば、深みの奧に隱れて居る遠島から、手紙が來たとする――それが實際生きて居る人だか、居ない人だか分らないながら、その來た手紙の書き手を、まんざら自分の知らない人だとは斷念の出來ないものである。これは自分の知らないうちに、一種の神秘的交通[#「神秘的交通」に白三角傍点]があつたに相違ないからだ。それが段々近づくことになつて、見もし、笑ひもし、接吻もすることになると、その最初の接吻が、一緒に住んで居る愛人の胸中に、いつも最も云ひ難い、最も愉快な記憶を浮べたり、また沈めたりする[#「その最初の接吻が」〜「また沈めたりする」に傍点]――この刹那が最も興味の盛んな時である。婦人は男子よりも運命に司配されることが多い[#「婦人は男子よりも運命に司配されることが多い」に白丸傍点],然し、素直で、眞率であるので、男子の境遇よりも婦人の方が神に近づいて居る[#「然し」〜「近づいて居る」に傍点]。今、女を抱いて居るとして、その女の忠實か不忠實か、浮氣か眞面目か、天女か鬼女かを問ふ必要はない――よしんば、下等な淫賣婦であつたにしろ、一たび『一つの心靈が一つの心靈を接吻する[#「一つの心靈が一つの心靈を接吻する」に白丸傍点]』と思ひ得られる時なら、その刹那は不思議であつて、驚嘆すべきものである。――久遠の愛を掴んで居る時――最も原始的本能を以つて、靈的交通をして居る時。
 婦人には一種の靈光があつて、男子は知の世界に下つて之を忘れて居るが、再び之に接合しようとすると、神秘の門をくゞらなければならない[#「婦人には」〜「くゞらなければならない」に傍点],婦人は卑怯であるから、一歩も之を出て來ることが出來ないのである。男子が知の形式を破つて、その門を敲けば、婦人は直ぐ、自分に送られた靈だと知つて、開けて呉れるのである。婦人を惡口する男子は、それに接吻するに最も善い高地を知らないのだ[#「婦人を惡口する男子は、それに接吻するに最も善い高地を知らないのだ」に傍点]。婦人は、父を恐れない小兒と同樣、神の前では無邪氣に笑つて居る。渠等の不斷の樣子を見れば、縫ひ物や編み物をしたり、髮を解いたり、結つたりして居るので、それに智識上の事を話しても分らない。婦人を見舞ひに行くのは、美しい花を見に行くのと同じである[#「婦人を見舞ひに行くのは、美しい花を見に行くのと同じである」に白丸傍点]。然し、愛には理解は入らない[#「然し、愛には理解は入らない」に傍点]、婦人は無意識で、運命のあてがふ結婚を待つて居るのだ[#「婦人は
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