く實驗した上、これでは凡人を教へられないと悟つて、無理にも樂觀してしまつたのであるから、渠の樂天觀は素直でない、その唯心論と同樣、方便に過ぎないのである[#「渠の樂天觀は素直でない」〜「方便に過ぎないのである」に傍点]。こゝに一つ、僕が『代表的人物』を讀んだ時に、そのふちへ書いて置いた覺へ書きを拔いて見よう――これは寧ろ渠の云つたことで、今の僕が持つて居る考へだといふのではない,
[#ここから引用文、一字下げ]
『人物の要は天眞を發揮するにある、原因の化身にある、未然の前兆にある、進歩の一里塚たるにある。その首を天の川の流れに洗つて、その足は地獄の床を踏んで居る。然し、一たびわれ等の理想界に這入つて來れば、純潔な平民でなくてはならない。』[#ここで引用文終り]
 その頃は、大分エメルソンを讀んだ人が多かつた。山路愛山氏が自然論といふ少し長い文を書かれたり、『文章は事業なり』など云はれたのも、このコンコルドの哲人の同じ論や、『代表的人物』中のゲーテ論から出たやうであつた。また、『國民の友』記者の文體で、流暢だが、冗長であつたマコーレー式が、急にぽつり/\と切れる、含蓄のあるのに變つたのも、大部臭ひがあるやうに讀まれたのである。
 そこで、エメルソンが僕等の悲觀の銀線を振動さして、メーテルリンクに見える樣な幽暗な面影を傳へたのはどうしてかと云ふに、これは、カントから糸口が出て、ヘーゲルの哲學に這入つた、絶對的主心論も與つて力があるだらうが、重にプラトーンを深く讀んだのと、東洋の思想を飜譯を通して見たのとが土臺になつて居るので、それにスヰデンボルグの人物が非常に感化を與へたのであるから、これから渠の事を論じて見よう。

 (六) 神秘家スヰデンボルグ

『代表的人物』にも、スヰデンボルグを評論してあつて、その六名の人物中、他のもの――モンテーン、シエキスピヤ、ナポレオン、並にゲーテ――よりも、渠とプラトーンとは最も骨を折つて書いてあるらしい。これから、瑞典[#入力者注(8)]の神學者スヰデンボルグを、エメルソンの評論と僕が讀んだことのある英譯とに據つて論じようと思ふが,メーテルリンクは神秘説を唱へる者に過ぎない、エメルソンは非常に神秘的傾向があるだけのこと、然しこの人と來ては、その人物が面白いほど神秘家に出來上つて居るのである[#「メーテルリンクは」〜「居るのである」に傍点]。
 スヰデンボルグはその當時の人には一種の夢想家[#「一種の夢想家」に白三角傍点]に過ぎなかつたが、然しそれが最も實際的の生涯を送つたのは、第一、不思議ではないか。渠は一六八八年にストツクホルムで生れたので、幼時から、山や鑛山へ這入《はい》つて、化學や光學や生理學や數學や天文學などの材料を探し、自分の變化が多い而も容量の大きい頭腦に適當する面影を求めた。小供ながら、渠は詩人ゲーテの樣に多方面の學者風であつたが、ゲーテがたしか鑛山技師にもなつたことがある樣に、渠は二十八歳の時、鑛山局の鑑定官[#「鑛山局の鑑定官」に傍点]になつた。四年間、英、蘭、佛、獨の大學を歴訪したり、また、鑛山並に溶鑛業視察の爲め、歐洲諸國を巡廻したこともある。一七一六年から三十年間は、科學的著述に忙しかつたが、つひに神學の研究に熱中することになつたのだ。
 その間に著述した大册は五十卷以上もあつて、過半は科學論であつた。その時代[#「その時代」に白三角傍点]は、ハーベーの血液循環説が出て居た時代、キルベルトが地球は一種の磁石であると示した時代,近世哲學の開祖デカートが、『われ考ふ、故にわれ在り』と喝破して、つひに自然渦動説を唱へ、ニユートンが『プリンシピヤ』を著はして、引力説を建てた時代,ライブニツツはその實體論にモナド説を主張し、ロツクは英國に於て實驗哲學を唱道した時代である。スヰデンボルグは、かういふ大觀念、大思想の澤山流行した間に處して、尚嶄然たる頭角をあらはして居るのである。
 スヰデンボルグの發表したのは、合一哲學[#「合一哲學」に白三角傍点]とでも云ふべきもので――この思想はプラトーンどころではない、苟も思索に從事したものは皆持つて居たのである。古詩にもある、古い寓言にもある、ベーコンも知つて居たし、プロチノスやベーメの樣な神秘家は尚更ら知つて居たのだが、たゞ謎の樣に發表してあつたのを、スヰデンボルグになつてから、之に獨立的、科學的證明を與へたので、全く新しい色を帶びて來たのである。『歴史は繰り返す』といふ語が、近來諺の樣になつてしまつたが、渠に據れば、自然はいつも同一のことを繰り返して居るのである[#「渠に據れば」〜「居るのである」に傍点]。脊骨のたとへ[#「脊骨のたとへ」に白三角傍点]で云つて見ると、その一端にはまた別な脊骨《せぼね》、乃ち、腕がついて居る,腕の端には、また小い脊骨、手がついて居る。本脊骨の他端には、脛があつて、またその先きに足がある、これがまた別な脊骨の重なりである。手の指、足の指も脊骨の小いのである。人體の頂上には、また脊骨の丸まつたもの、頭蓋骨があつて、手が上顎で、足が下の顎で、手指と足指とは上下の齒である。それがまた心といふ體を以つて、新しい要素を食つたり、消化したり、分泌したりする。腦では、また、經驗といふ物を比較したり、取捨したりして、滋養の働きをする。また、新たに不思議な働きが起る、腦のうちでは男女の能力があつて、それが結婚もして居れば、兒を生みもして居る。かう云ふ風に、自然は螺線的に進歩をして、限りのないものである[#「自然は螺線的に進歩をして、限りのないものである」に傍点]。重力説もつひには形而上學の現象となるし、天文學もまた人の生命中に解釋が出來る樣になる。たゞ萬事萬物の働きが向上して行くのである。舌は小い舌の寄り合ひで、胃は小胃の集合,餓は小餓の、善は小善の集り。人は乃ち天の小いもので、大くなれば天と同一である。歸するところ、物質界は心靈界の表象[#「物質界は心靈界の表象」に白丸傍点]となつてしまうのである。
 曾て博士三宅雄次郎氏が『我觀小景』といふ書を著はして、宇宙は大なる人體であると云はれた。それでは分泌もやるだらうが、どこからやると、故大西博士が嘲つたが、故博士の樣に哲學史の迷ひ[#「哲學史の迷ひ」に傍点]――と僕は名づける心持ち――に這入つて居られた人には、到底こんな大膽な獨斷は出來なかつたのは無理もない。たとへ批評眼の鋭い者でも、一たび自分の説なるものが吐ける時が來たら、他人からは自分がやつたと同じ批評と冷笑とが來るのは、豫期して居なければならないのである。哲學の系統が立つたと思ふ時は、早や獨斷に這入つて居るので、よし又それが立つて居ないにしろ、自家に生命を與へて居る説なら、之を發表する勇氣が出て來るに定つて居る[#「自家に生命を」〜「定つて居る」に傍点]。三宅博士の著が出た頃は、僕もスヰデンボルグを知つて居たので、或は渠の思想が、梨倶吠陀[#入力者注(9)]讃歌のプルシヤ(Purusha)、乃ち、『原人』とも譯すべき思想と共に、多少の影響を博士に與へたのではないかと、面白く讀んだことがある。
 スヰデンボルグは、世界をかういふ風に料理して行くばかりでは滿足しなかつた。五十四歳の時、一種の靈的光明に接して、かの神夢を見たうらなひ者の樣に、欣喜雀躍、忘我の境に這入つてから、官能的世界を道徳的に説明し初め、科學的著述をやめてしまつた[#「五十四歳の時」〜「科學的著述をやめてしまつた」に傍点]。内的視力[#「内的視力」に白三角傍点]――エメルソンでは、之が洞察になつて居る――を以つて、他界の事物が見える、而も現世の事物よりも明白に見える、と斷言して居る。プラトーンの書に、最古の代には、今の人間よりも高等な人間が居て、神々に近く住んで居たといふ比喩があつて、これは佛教の『原人論』の思想とよく似て居るが,スヰデンボルグは之に追加をして、この原人ともいふべきものは、この世界を表象的に使つて居たので、天に對しては、渠等はこの世の事物は考へない、たゞその意義を考へたのだ[#「この原人ともいふべきものは」〜「たゞその意義を考へたのだ」に傍点]と思つたのである。エメルソンは、この思想を『自然論』に應用して、自然はその理法を洞察的に究めて行くと、透明になつて來て、全く心靈ばかりが殘ると云つたのであらう。
 然し、エメルソンの實際生活上には、之をひねくツて、或時、客が『主人は居るか』と訪ねて來たので、自分で『居ない』と答へた,すると、客が『その聲はエメルソンではないか』となじつたので、渠はまた『エメルソンは今天の事を考へて居るから、居ない』と云つてしまつた位が落ちだが,然し、スヰデンボルグには、最も不思議なことが實際に起つて居るので、神秘家の本領[#「神秘家の本領」に白三角傍点]を示めして居る。それは、三百哩も隔つたところの宴席に臨んで居て、そこから自分の住居地ストツクホルムの火事を見とめたことだ。その火事が自分の家から三軒目のところで止まつたことまで云つたので、人々が跡から之を問ひ合はして見ると、果してその通りに違ひがなかつた。これは有名な話で、當時の大哲學者カントも、その席に居て、大いに驚いたさうである。
 少し話がそれるが、スピリチユアリズム[#「スピリチユアリズム」に白三角傍点]といふものがある。之を信じて居る人の説に據ると、空間に一種の靈氣があつて、遠方に居る人の樣子などを通信して呉れる。これは、何でも、印度で生れた英國婦人が唱道し初めたのであるが、現今ロンドンで發行する雜誌、『評論の評論』記者ステツド氏は、頻りに之を應用して居るので――誰れでも善い、隔つて居る人の事情を知りたいとか、その人を呼び寄せたいとか思ふと、手に持つて居るペンがおのづから動き出して、それだけの働きをする。而も間違へることはないのである。これは、いつか、氏の雜誌で氏が詳しく書いたことがあるし、また※[#「※」は「姉」の本字、336−36]崎博士は大學で之を説明して居られるさうだ。
 ステツドのスピリチユアリズムはどんなに明確な説明が出來るか知らないが、スヰデンボルグの樣な神秘的能力を以つて居た者が、あまり結論を急いだ爲めに、自然の事物を直接に神學的意義を有して居るものゝ樣に斷定してしまつた[#「スヰデンボルグの樣な」〜「斷定してしまつた」に傍点]。『動物界』では、動物體ばかりでない、すべての自然を經て、物質界は心靈界の表象であることを教へ,『天の秘密』と『示されたる天啓』では、心靈の世界、天使の天などで見て來た事を示めしてある。殊に最後の書の如きは、『ユダの支派《わかれ》より出でたる獅子』ばかり解釋が出來るとしてある『默示録』――耶蘇教の神學者が絶望してしまう書――を解釋して、嶄新な意義を附してある。然し、嶄新だといつても、すべてその『天と地獄』の樣に、僕等から見れば、久遠の生命に入る準備ともいふべきことを、宗教の實行觀にあてはめたばかりで、たゞ平凡な宗教家の説明と違つて、スヰデンボルグ獨得の思想が固定してしまつたのに過ぎない。
 渠の教義[#「渠の教義」に白三角傍点]に從へば、すべて物には物質的、心靈的の二方面がある,して、前者は後者の表象に過ぎない。この見解が非常に固定した形式を取つてしまつたのである。『新ジエルサレム、生命の教義』を見て分る,聖書の『エジプトは人にして神にあらず、その馬は肉にして靈にあらず』(以賽亞書[#入力者注(10)]三十一ノ三)とあるを解釋して、『エジプト』は人間の智慧から出た科學、『馬』はその肉的理解力の表象として、神がこの世に現はした物。――『人若しわれに居り、われ亦かれに居らば、多くの實を結ぶべし』(約翰傳[#入力者注(11)]十五ノ五)とあれば、その『實』とは、善を示めす爲めに、木に出來る物。――また、『木』は人、その『葉と花』は眞理の信仰を意味して居るし、美しい娼婦は乃ち虚僞のことを、ジエルサレムは教會を、アツシリヤは理性を、カルデヤは眞理の妄用を、バビロンは妄用された善を云ふのだ。表象主義もかう極端に狹くなつ
前へ 次へ
全17ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岩野 泡鳴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング