」に白三角傍点]である、訓練[#「訓練」に白三角傍点]であるといふ事で、今まで論じて來た三つの物は、すべてこのうちに含有することになると、エメルソンは云つて居る。自然は思考上の眞理を理解する爲めの訓練になるが、その思考にばかり訓練の功があらはれても、之を實行しなければ夢の樣なものである。時間、空間、勞働、氣候、動物、機械力等、すべて一般に自然に屬して居るものは、皆、毎日/\人間を教訓して呉れる。草木の種から枝葉と育ち上る工合も、海綿の樣な動物からヘーラクレースの樣な神人に發達する段階も、皆、人間に善惡の理法を教へ、十誡の意義を聽かせて居るので――神から見れば、すべての目的は新しい手段になつて居て、人は之をその用に從つて役に立てゝ行かなければならない[#「神から見れば」〜「行かなければならない」に傍点]。
この教練に從つて造化の意匠が分つて來ると、高尚な情緒が起つて、僕等を擴張して呉れる、この自個擴張[#「自個擴張」に白丸傍点]はインサイト、洞察に由らなければならない。『自然論』の序論には、近世の哲學者等が、この洞察力に乏しいので、宇宙を達觀することが出來ないで、かの科學者輩と同樣、部分/\の小研究にばかり拘泥して居るのを歎息してある。洞察に由つて天地の理法が分つて來ると、時空の關係はおのづから消えて行つて――エメルソンに據れば、理法は乃ち宇宙の大心靈と一致して居るのであるから――自分は段々大きくなつて、宇宙が却つて小い物になつてしまう[#「自分は段々大きくなつて、宇宙が却つて小い物になつてしまう」に傍点],否、宇宙は自分の實行力、意志と同一になる――意志の實現[#「意志の實現」に白丸傍点]である。僕等が思想の圓滿な發表は、乃ち、こゝにあるのだ。かうなると、人は官能的事物を通り拔けて、不滅の教兒に化してしまうのであるが、こゝに一種高尚な疑問が起るに相違ない。――宇宙の最大原因はこれであつて、自然といふ物は、もう、外形的に存在して居ないのであらうか[#「自然といふ物は」〜「居ないのであらうか」に白三角傍点]。
唯心論を一笑に附してしまうものは、たとへば、唯心論者の頬ぺたを張り飛ばして、その論者が急に怒り出すと、それが痛いか、お前の身體はもう無い筈であるのに、とからかつた例もあるが――そんなものではない、完全な唯心論ならば、何も外界を否定するには及ばないのだ[#「完全な唯心論ならば、何も外界を否定するには及ばないのだ」に傍点]。心靈的理法は一貫して變はらないので、之につながつて居る僕等も、矢張り變はることはない。僕等は波上にたゞよふ船の樣ではない、依然として立つて居る家の樣だ。かう云へば、變化のあるので生活して居る株屋だとか、大工だとか、通行税を取るもの等は困るだらうが、論者には少しも不自由はないのである。
メーテルリンクは、僕等の官能が粗雜であるので、之を根源とする知力では、到底神秘界に入り込み難いと云つたが、エメルソンはまた、官能が明確にならない限りは、世界を上から見て、唯心論的に説明して置くべきものだと思つて居た。鈍根のものには、自然はたゞ官能的に見えるばかりだが、理性の發揮して來るのと、意志の奮興して來るのとで、僕等は官能的壓制をのがれることが出來るから、自然の輪廓と表面とは透明になつて、もう見えなくなつてしまう[#「鈍根のものには」〜「見えなくなつてしまう」に傍点]。その代り、一貫した理法が見えて來て、そのまた理法が心靈と合體してしまふのである[#「その代り」〜「合體してしまふのである」に白丸傍点]。
エメルソン自身の證明[#「エメルソン自身の證明」に二重丸傍点]は、五つに分れて居る。渠が唯心哲學の第一の定めは、自然その物から受くる暗示で[#「自然その物から受くる暗示で」に白三角傍点]――たとへば、船に乘つて行きながら岸を見たり、また、自分の胯の下から野原をのぞくと、いつも見馴れて居る景色でも、大變違つた樣に見える。この時は、物心二元論の立ち塲に住して居る樣だが、然し、世界が一つの觀せ物であると同時に、自分の心中には、一種不易のものがある樣に思はれる。
第二に、詩人は之と同じ樣な快感を傳へて呉れる[#「詩人は之と同じ樣な快感を傳へて呉れる」に白三角傍点]。たとへば、海なり、山なり、少女なり、豪傑なり、世間一般に知られて居るものに、僅かの意匠を加へると、そう云ふ物が、詩人の根本思想を軸として、自由な回轉をして、全く新しいものとなる。これは、その詩人の思想の表象となつてしまうのである[#「これは、その詩人の思想の表象となつてしまうのである」に傍点]。シエキスピヤはかういふ想像力に富んで居たので、萬物を自由に丸めて、自家藥籠中のものとした。詩人に取つては、ピラミツドも新しくツて、また移し得べき物である。乃ち、詩人がその盛んな情熱を以て、諸事件の間に心靈的親和力を見とめ、世界の重大な現象を自由に取り扱つて居るのを見ても、心靈の力は偉大なことが知れるのである。
第三に、詩人はそういふ風にして美を目的とするが、哲學者は眞理[#「哲學者は眞理」に白三角傍点]を目的とするので、萬物の秩序と關係とを自家の思想中に組み立てゝしまう。プラトーンが云つた通り、『哲學の問題は、條件附きで存在して居る事物の爲めに、無條件絶對の根據を發見してやる』のである。エメルソンは、之を詩人に劣らない偉業として、心靈力の證明に入れてある。――尤も今日の樣に、哲學者となるべきもの等が科學に降服して、あツちの實驗室、こツちの講堂で、重箱の隅をほじくり合つて居るのは、斷然取らないのである。
第四に、心的科學をやつて居ると、どうしても、物質の存在を疑ふやうになる[#「心的科學を」〜「疑ふやうになる」に白三角傍点]――之を疑はないものは、もう、形而上の探究に向いて居ないものである。苟もこの疑問に到着すると、必らず不滅、必然、自存の自然物――云ひ換へれば、諸觀念――に注意することになるだらう。プラトーンはこの觀念に向上的階段があると思つて居たが、兎に角、觀念の前へ出ると、外界は影か夢かの樣になつて、自然は心靈に歸してしまう。そうなれば、世界は一大靈物[#「一大靈物」に白丸傍点]の思想が現はれて居るのだと分る。――この大靈物とは、エメルソンの論文が至る處に歸着する思想である。
第五に、宗教と倫理[#「宗教と倫理」に白三角傍点]――これは、前者は神に對する義務を、後者は人に對する義務を教ゆる違ひはあるが、自然を足下に踏みにじつてしまうのは一つである。プロチノスは――これは、メーテルリンクも好んで引用してある神學者だが――物質を甚しく忌み嫌つた極、自分の身體を耻ぢて居た位だ。見える物は移り變はる物、見えない物は久遠だといふのが、宗教の最初であつて、また最後の教へである。――尤も見える、見えないと區別するのは、詩人から云へば、をかしな方便ではあるが、宗教家は見えない物に心靈の意義を附して行くのだ。
以上は、エメルソンが唯心論を證明して居る件であつて、論理上から云へば、あまり平凡な樣だが、僕等の受ける教練には、すべて唯心論の色が染みて居るので、自然なる物の位置[#「自然なる物の位置」に傍点]さへ定まれば、この論が宇宙の事物を説明するのに一番便利だといふ譯である。
自然の位置!
これに就ては、メーテルリンクは別に哲學的根據となる程の言葉を云つて居ない樣だが、僕の意見を云ふ時、尚兩人の説に及ぶとして,エメルソンに據ると、思考的理性と實際的理性、云ひ換へれば、哲理と徳行とは、おのづから唯心的傾向を來たすもので――思想の光に照らして見ると、世界は常に現象的であるが、徳行はこの現象的なるものを制服して、内心に向けてしまう。エメルソンの唯心論は世界――自然――を一大心靈のうちに見たのである[#「エメルソンの」〜「見たのである」に白丸傍点]。
先きに非我と定めた自然は大我のうちに融和するので――それで、自然が全く無くなつて居るのかといふに、そうでもない。かうなると、大乘佛教の面影も見えて、世界は神聖な夢であつて、その夢の中にあらはれて居る自然は、心靈が百尺竿頭一歩を進めて、下方へ權化したので、心靈から云へば、その無意識的射影であるのだ[#「世界は神聖な夢であつて」〜「その無意識的射影であるのだ」に傍点]。僕等は乃ち神の落ちぶれたので、自分から現在の樣な姿になつたのである,自分等から太陽も月も流出したので、男子から出たのが太陽となり、女子から出たのが月となつた。それが何たる不敏だ、今では月と日とを拜んだりするものとなつてしまつた。然し、自然の理法が僕等の本能に働くと、本能は、プラトーンの所謂想起説の樣に、その働きに由つて、僕等を段々小我から解放して、たとへば盲人が視力を恢復して段々光に接して行く樣に、心靈の力が活躍して來るのである。
僕等が大心靈に合體してしまへば、もう、それが極致であるが、それまでの道行きは崇拜の念[#「崇拜の念」に白丸傍点]を以つて爲なければならない――また、必らずそういふ道念が生じて來る。人は心靈といふ説明し難い物のことを考へると、その考へが進めば進む程、之に就いて語ることが少くなると、エメルソンも云つて居るが[#「人は心靈といふ」〜「云つて居るが」に傍点]、無言に至つてその極に達するのであらう[#「無言に至つてその極に達するのであらう」に白丸傍点]。
これは『自然論』の要點であるが、心靈その物の解釋は何處《どこ》にも見えて居ない。エメルソン自身もその思想が進歩するに從つて、論旨に滿足しないところが出來たさうだが、そんなことはかまはない。メーテルリンクが渠の議論から自分の考へを引き出して行つた跡が分れば善いので――メーテルリンクの所謂『暗い運命』は、エメルソンの樣な歸本説では、『明い運命』となりかゝつて居る差はあるが、例の知力で實體なる物が解釋の出來ない限りは、後者の所謂『大心靈』に至つて、前者の所謂『無言』はその絶頂に達するのであるし,兩者が宇宙を全く表象と見て居るのも同じで、たゞ、特に神秘を稱道したメーテルリンクは、エメルソンの樣に知力を以つて之に突入して居ないところが違ふばかりである。讀んで居るうちに、段々論理を離れて、僕等の思想を何となく深い、幽暗なところへ引つ込んで行く傾向のあるのは、僕の非常に嬉しいと思ふ點だが[#「讀んで居るうちに」〜「嬉しいと思ふ點だが」に傍点]、これが兩者の詩的生命になつて居るのである[#「これが兩者の詩的生命になつて居るのである」に白丸傍点]。然し、エメルソンはさすが哲學者肌であるが、メーテルリンクは――その創作に關しては尚更らだが――飽くまで情の上に殘つて、知力をまでも情化する詩人の本色を存じて居る。
今少しエメルソンの特色と神秘的傾向とを云つて、それから、兩者の思想に大感化を與へて居るスヰデンボルグの事に移らう。
(五) エメルソンの特色と神秘的傾向
エメルソンには格言的文句が多い。『たとへ地獄は地獄の下に開らけ、學説は學説を排除しても、畢竟、すべては久遠の原因中に含まれて居る。』『あらゆる事物は表象的であつて、われ等が結果と呼ぶものも發端である。』『下なる理法は上なる理法の姉妹である。』『自然は高貴なものゝ爲めに存じて居る樣だ。』『多くの個人を研究すれば、われ等を原始的境界に導いて、そこには個人が無くなつてしまうか、又はその凡てが頂點に接觸する。』これは皆『代表的人物』から拔萃したのであるが、かういふ考へになつてからは、プラトーンを論じて、希臘人が均齊を愛したことや、定義に巧みなのを欽慕したり,ナポレオンを『惡大神』と罵倒しながらも、その勇氣と覺悟と行き屆いた手段と大常識とを稱揚したりしてある。
エメルソンの所謂心靈が、百尺竿頭一歩を進めた時の樣に、渠自身も亦發達するに從つて、小乘的見解から廻つて來たが、その『圓論』などではかう云ふことを述べてある,『唯心論には段階がある[#「唯心論には段階がある」に白三角傍点]。われ等が最初に學ぶのは、之を專門學的に持て遊ぶので、磁石が一度玩弄物
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