]。これは純粹無垢の情緒を以つて感じられる世界である。無言の星が神秘の夜空《よぞら》に輝くと、遺傳も運命もそれから出た光線の一部に過ぎない。
 僕等を制限するものは運命であるので、僕等が獸的であれば、運命も獸的となる,僕等が靈的となれば、運命も靈的である。これが神秘的自我の發現[#「神秘的自我の發現」に白三角傍点]する工合である。自我が無言のうちに最も發揮せらるゝところから、メーテルリンクは悲劇にスタチツクトラジエデイ、乃ち、靜的悲劇[#「靜的悲劇」に白三角傍点]を發案した。芝居を少しも動作を爲ないで、心持ちばかりで見せるので、――つまり、有形の動作がなく、無形の事件のうちに、一種の靈果を感じられる樣に爲やうと云ふのである。これは畢竟空想に過ぎないとしても、渠の戯曲には、この表象的作法が至るところにあらはれて居る。メーテルリンクに據ると、人の日々の生活上に見える悲劇的要素が、眞の自我に對して、頗る自然的で而も切實である度合は、臨時の大事件に包まれて居る悲素よりも、遙かに多いので[#「メーテルリンクに據ると」〜「遙かに多いので」に傍点]、渠の詩材は平凡な事件に取つてあつても、悲莊なところがある[#「渠の詩材は」〜「悲莊なところがある」に白丸傍点]。『インテリオル』の樣に、一家團欒の間へ、外部から娘の死の知らせが這入つて行く樣子や,『イントリユーダー』の樣に、盲目の老爺の心中へ、二階の下から、段々死者の靈報が響いて行く工合や,長篇では、また『プリンシスマレーン』の如き、前二篇と同じ樣に構成上の缺點はあるが、すべて運命劇の特色[#「運命劇の特色」に白丸傍点]を帶びて居る。劇に就ては、あとでまた自説を述べる時に云ふこともあらう。
 以上は、僕が讀んで、自分の考へて居た事※[#「※」は「てへん+丙」、読みは「がら」、327−9]を胸中に呼び起したので、甚だ面白く思つたのだが、メーテルリンクはそれ以上の事は分らないと云つてしまう――然し、これはノスチツク學派や不可知論者の云ふのと違つて、知力的ながらも熱烈な想像を以つて這入り込むので、哲學者等が、確實だといふ論理を以つて、わざ/\天地を狹く限つてしまう樣なものではない[#「知力的ながらも」〜「樣なものではない」に傍点]。耶蘇がその弟子に向つて、眞理は今はおぼろげであるが、あとでは、顏と顏とを合せて相見るやうな日が來ようと云つた通り、神秘はいつも生命となつて世に殘つて居るのである。
 メーテルリンクは法律家であつて、その業務の傍ら、論文と作劇とに從事して居たが、『モンナワンナ』を作つてから、その作劇上の資才が見とめられる樣になつたのである。渠の所論には、僕も亦云ひたかつた點が多いのであるが、それではエメルソンは僕等とどう云ふ關係になつて居るか。メーテルリンクのエメルソン論が、去年の『ポエトローア』に出たが、まだ見ないのは殘念だ。

 (三) エメルソンの『自然論』 (上)[#「(上)」は底本では左右にパーレンのついた「上」]

 メーテルリンクが、情を以つて入る外には、現在の人間が理解することは出來ないと棄てたところを、エメルソンは一個のコンベンシヨン、形式を以つて解釋が出來ると云つて居る――その形式は唯心論[#「唯心論」に白三角傍点]である。
 唯心論と云へば、哲學者等は古いと笑ふだらうが、エメルソンのは少し違つて居る。渠は唯心論その物を證據立てようとして齷齪するのではない[#「渠は」〜「齷齪するのではない」に傍点]。たゞそれを發足點として、それ以外又はそれ以上のことを云つて居るのである。若し唯心論が成り立たないとすれば、エメルソンの思想は論理上の根據は無くなるだらうが、渠自身の價値は變はらない――エメルソンの唯心的論理は形式であつて、その生命とするところは別にあるのだ。
 その文體を見ても分る、短刀直入、アービングの樣な形容詞を避けて、實質のある名詞を使ひ、ピリオドだらけの兀々《ごつ/\》した文で、句々節々の關係が、そう甘く三段論法には行つて居ない,文章はあまり分る樣に書くと、讀者は却つて要點を見のがしてしまうから、その要點に止つて暫く考へさすのが必要だ[#「文章は」〜「必要だ」に傍点]と云つてある。エメルソンは暗示的であつて、以心傳心的に僕等を刺撃するところがある。渠の暗示と刺撃とを受け取れば、もう、その形式と方便とは弊履と同樣棄てゝしまつても善いのである。
『自然論』八章――序論を合せて九章――は、僕、以前から飜譯して持つて居る位だが、自然を我に非らざるもの凡てと見て、始つて居る。非我なる自然は、その個々別々の状態に於ては粗雜なものであるので、詩人の立脚地から、全體を一つに見なければいけない。そこで、エメルソンは純全觀念[#「純全觀念」に白三角傍点]といふことを主張した。たとへば、僕等が郊外に出る、そしてあの山は太郎作のだ、この森は權兵衞のだ、向ふの畑は丑松のだと見るばかりでは、何の美もない,美は野山全體の景色に浮ぶので、これは誰れの持ち物でもない、たゞ詩人の胸中に所有されて居るのだ――これが乃ち純全觀念である。
 この純全觀念に映つて來る自然が、宇宙の大原因に進むには階段がある。エメルソンは之をユース、方便[#「方便」に二重丸傍点]と名づけた――第一、物品,第二、美,第三、言語,第四、教練。
 第一の物品[#「物品」に白三角傍点]とは、自然から授かつて、すべて僕等の官能上に役に立つて呉れるもの。これは、人間を養ふものだが、之に養はれるのが目的でない――養はれて、それから向上的活動をするのが目的である。
 第二は、美[#「美」に白三角傍点]を愛すること。希臘《ギリシヤ》[#入力者注(5)]人は世界をコスモス(Κο´σμοσ)と呼んだが、これは同國語で格好、秩序、又は美といふ意味から來て居る。エメルソンは耳から這入る音樂の美を忘却して居るので、僕もこゝでは略すが、目は最高の建築家であれば、光は第一等の畫工であると云つて居る[#「目は最高の」〜「云つて居る」に傍点]。
 それで、美の状態を三つに分けた――單に自然の格好[#「自然の格好」に白丸傍点]を見るのも樂みだが、一段進めば、男子的美[#「男子的美」に白丸傍点]、乃ち、人間の意志と結合して來た時の美がある。たとへば、レオニダスとその三百の兵士が、國家の犧牲となつて、サーモピレーの山間に倒れて居るところを、太陽と月とがそれ/″\照らした時,また、コロムバスの船が、萬難を冐して、西印度の一島に近くと、岸には、之を見た土人等が、甘蔗葺きの小屋から、ばら/\と逃げて行くのが見える、うしろには洋々たる大海を控へ、前には紫色の連山が横はる,すべて斯ういふ時には、この活畫から人間を離して見ることは出來ない。意志を以て立つ天才の周圍には、人物でも、學説でも、時勢でも、自然でも、すべてその天才と融和してしまうのである[#「意志を以て」〜「融和してしまうのである」に傍点]、美の今一つの状態は、知力の目的[#「知力の目的」に白丸傍点]となつた時で――知力は好き嫌ひの感情をまじへないで、事物の絶對秩序、絶對の理法を求めて行く。意志に伴ふ美は求めずして來たる實行美[#「實行美」に白丸傍点]、善である,知力がわざ/\求めて行く美は、乃ち眞理[#「眞理」に白丸傍点]である。エメルソンも亦例の眞善美合一論者で、――成る程、この三者を別々に考へれば、つまりはそう云はねばなるまい。
 それで、思考上の美と實行上の美とは、同じくないところがあると同時に、また相補つて行くので――丁度、動物が食ふ時と働く時とがあるに似て居る。心靈には美を求むる慾があつて、僕等はそれを滿足させなければならない。自然の美は人の心中に這入つてから改良せられ、たゞ乾燥無味な思考の爲めではない、一段新しい創造となるのである[#「自然の美は」〜「創造となるのである」に傍点]――美は乃ち再現せられて、藝術となるのだ。この藝術があつて、心靈の美慾は滿足するのである。かうなつて來ると、自然――乃ち、非我――の美だけでは最終のものとは云へない、更らに内部的、内存的の美に入らなければ、最大原因に達することは出來ない。
 そこで、方便の第三、言語[#「言語」に白三角傍点]を説いてある。人間の話す言語ばかりではない、エメルソンの唯心論から云へば、自然その物は思想を表はして居る言語である。それに神秘的個條[#「神秘的個條」に白丸傍点]が三つある,
 (一)[#「(一)」は底本では左右にパーレンのついた「一」] 言語は自然の事實の表象である事。
 (二)[#「(二)」は底本では左右にパーレンのついた「二」] 特殊の自然的事實は、特殊の心靈的事實の表象である事。
 (三)[#「(三)」は底本では左右にパーレンのついた「三」] 自然その物は心靈その物の表象である事。
 かういふところはスヰデンボルグに似て居る。たとへば、心の正しいとか、曲つて居るとかは、竹などの眞直ぐであつたり、くねつて居たりするのと同じで,また、胸と云つて情緒を表し、あたまと云つて思想を現はす。人間が單純な生活状態にある間は、すべて物質的、外形的の物を借りて來て、心靈的、内在的の表現をするのである。外界に見える状態は、必らず内心にもある状態で[#「外界に見える状態は、必らず内心にもある状態で」に傍点]――怒つて居る人は獅子で、狡猾な人は狐で、泰然自若として居る人は岩の樣である。小羊は無邪氣、蛇は惡意、花は微妙な愛情を示すし、また、光と闇とは智と無智とを、熱は戀を、僕等が前後の風景一幅は、僕等の記憶と希望とを反映して居る。その自然の諸事物を別々に見ないで、前にも云つた純全觀念に統一してしまうと、乃ち、それが一大心靈の表象である[#「自然の諸事物を」〜「表象である」に傍点]。之を思考的に云へば、理性[#「理性」に白丸傍点]その物であるが、自然に對照しては、心靈といふ方が善い。この心靈を世俗は神と名づけて來た。
 それで、人が自分の心靈から出て來る思想に、適切な表象を結びつけるには、その人の品性が率直になつて、その觀念が純全になつて來なければならない。一たびそうなつた時には、言葉は水の流出するやうに出て來るのである。小供の時から森林の中や、大海のほとりに育つた詩人又は演説家は、その育つた時にはあまり氣に留めて居なかつた自然ではあるが、市中の喧噪な間に居ても、之を忘れて居ないので、さア一大事と來たら――たとへば、革命の起つた時など――少しもあわてることはない、泰然として居られるのは、全く自然の感化があるので――その自然の表象が、昔、朝の光に輝いた通り、今も記憶に映じて來て、目前に起つて居る事件を處分するに足るだけの思想と實行とに成るのである[#「その自然の表象が」〜「成るのである」に傍点]。天才が一たび高尚な情操を潜《くゞ》つて※[#「※」は「口へん+斗」、読みは「さけ」、329−4]び出せば、山河も鳴動する、草木も感泣する。かう云ふ力を得てから、初めて人心を制服することも出來る、また慰籍することも出來る。
 歸するところ、外界の法則と内心の作用とは一致して居る[#「外界の法則と内心の作用とは一致して居る」に傍点]ので、『二一天作《にいちてんさく》[#入力者注(5)]の五』[#入力者注(6)]は、直ちに之を倫理にも應用することが出來る。之を心中に應用すれば、その意味の範圍が廣くなつて、術語の拘束を脱するばかりのことだ。そこで、歴史にあつた事件は、必らず僕等の心にも起つて居るので――エメルソンの『歴史論』には、鼠《ねづみ》の寄り合ひを記録してないのは、歴史の本分を忘れて居るのだとまで云つてある。鼠の會議は國會の議事であつて、國會の議事はまた僕等の腦中の冥想となつて居るのである。

 (四) エメルソンの『自然論』 (下)[#「(下)」は底本では左右にパーレンのついた「下」]

 エメルソンが設けた自然に對する方便は、最下級の物品から進んで、美論となり、また言語的表象の事を論じてしまつたが、まだ第四の意義がある。
 方便の第四は、自然は教義[#「教義
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