神秘的半獸主義
岩野泡鳴
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議論は相合はぬ節多けれども、
常に小弟を勵ます益友、
木村鷹太郎君にこの著を献ず。
はしがき
僕、一席の演説を依囑せられ、その原稿を書いて居ると、この樣に長くなつてしまつたので、雜誌に掲載することも出來ず、止むを得ず一册として出版さすことにした。
曾て、博士三宅雄二郎氏、『我觀小景』を公にせられて以來、わが國に於て、同氏の如く哲學上の荒蕪を開拓して、自説を發表し、且之を持續體現せられたのは、愛己説の加藤博士、現象即實在論の井上博士、並に無神無靈魂説の故中江兆民居士だけであつたかと記憶して居る。その諸説の由來と可否とはさて置いて、かういふ篤學諸氏の驥尾《きび》[#入力者注(5)]に附して、僕が一種の哲理を發表するのは、少し大膽過ぎるかも知れないが、僕には僕の思想が發達して來た歴史もあるので、別に憚るまでもなからうと思ふ。僕がこの十餘年來、友人の間に、はじめは自然哲學と稱し、なか頃空靈哲學と唱へ、終に表象哲學と名づけるに至つた思想が、この書中に現はれて居るのである。
附録の諸篇は、僕が折にふれて種々の雜誌に出した演説、論文等の中から、本論の不備を補ふに足る分だけを寄せ集めたのである。
明治三十九年四月二十日
東京にて
岩野美衞識
(一) 緒 言
僕は議論を好まぬ、拾數年以前、詩を作り初めてから、議論は成るべく爲ない方針である,然し、世間の人は詩を了解する力が乏しいので、詩には遠から現はれて居る思想でも、單純な理窟に成つて見なければ目が覺めないのは、如何にも殘念なのだ。近頃、身づから救世主であるとか、あらざる神を見たとか、大眞理を發見したとかいふものが出て來て、宗教と哲學とに深い經驗のない青年輩は、如何にもえらい樣に之を云ひ噺して居る。――僕は前以つて斷つて置くが、そんなえらい人々と競爭するつもりではない、ふとしたことから智識慾が燃えて來たを幸ひ、たゞ僕の立ち塲を知人と讀者とに明かにするばかりである。
或友人があつて、僕の詩に段々神秘的趣味が加はつて表象的になるのを見て、メーテルリンクに氣觸《かぶ》れて來たと云つた。實は、僕には自分に發達させて來た思想があるので[#「實は」〜「思想があるので」に傍点]、そう云はれるまではメーテルリンクを讀んだことはなかつたのである。早速、他から借りて讀んで見ると、なか/\面白い,十數年前から、自分の頭腦に染み込んで居る思想がずん/\引き出されて來た。自分の思想と情念とは、エメルソンの賜物が多いので――一しきりは、英文を作ると、エメルソンの眞似だと、外國教師から笑はれた時もある位である。今日の考へは、その當時から見れば、變遷して居るにせよ、エメルソンから刺撃を受けて進歩して來たのである。エメルソンは僕の恩人である。
ところが、メーテルリンクの論文を讀んで行くと、一篇の構造振りから、思想の振動して居る工合までが、大變このコンコルドの哲人に似て居る[#「ところが」〜「似て居る」に傍点]。僕は十年前の知己に再會した樣な氣持ちがした。不思議だと思つて讀んで行くと、エメルソンの語までが引用に出て來たのである。――僕は愉快になつたので、その書の持ち主へ手紙を書いて、歐洲近時の文壇にも、自分と同意見者のあるを好《よ》みすと云つて遣つた。尤も同意見と云ふよりは、同趣味と云つた方が善い。
その時は他に旅行をして居たので、歸京してから、友人に會つて見ると、その友の話に、僕は知らなかつたが、メーテルリンクは三人の感化を特に受けて居る――それはノワ゛[#底本では「ワ゛」は一字]リスとエメルソンとスヰデンボルグとであることが分つた。僕は第一者の作を知らない、第二第三のは知つて居る。エメルソンは、隨分、スヰデンボルグといふ神秘的宗教家の感化をその作から受けた,して、メーテルリンクはまたエメルソンからの感化を受けたのである[#「エメルソンは」〜「受けたのである」に傍点]。メーテルリンクと僕とは、思想上の兄弟分である[#「メーテルリンクと」〜「兄弟分である」に白丸傍点]のが分つた。それから、また、メーテルリンクの劇『アグラベーンとセリセツト』の英譯を見ると、その序文にマツケールといふ人が云つてある,『モーリスメーテルリンクは、「賤者の寶」(その論文)で見ると、公然たる新プラトーン學派の思索家、神秘家であつて、飽くまでエメルソンに浸《ひた》つて[#「飽くまでエメルソンに浸つて」に白三角傍点]、且、プロチノスとスヰデンボルグとから靈感を得て來た者らしい』と。プロチノスとは、乃ち、新プラトーン學派の人であつて、エメルソン並にスヰデンボルグも好んで引用した神秘家である。
そこで、先づ、僕の意見を述べて掛るのが本統であらうが、僕は至つて議論が下手である――友人は明確な論理を以て居ないからだと云ふ。自分もそうだらうと思つて居る。然し、これは耻づべきではない。ヘーゲルの哲學の樣に、論理その物が殆ど宇宙の生命であるかの域に達して居ても、尚傳へ難いところがあるので、シヨーペンハウエルは別な方向を取り、ハルトマンの如きもヘーゲルを利用したに過ぎない。
論理といふものは、最も明確であつても、繪で云つて見れば、寫眞以上の事は出來ない。寫眞は小いながら景色を間違ひのない樣に見せるが、それ以上の範圍又は内容を示すべきものではない,繪畫となれば、然し、その出來上つた幅面に、或捕捉し難い意味を活躍たらしむることがある。論理では、到底、神秘は説けない[#「論理では、到底、神秘は説けない」に白丸傍点]。その説き難いところは、乃ち、藝術の威嚴が生じて來る範圍である[#「その説き難いところは」〜「範圍である」に傍点]。然し、議論をする以上は、それが下手だと云つても申し譯にはならない――先づ、他の三家を論じて行くうちに、神秘の紫を溶かして置いて、それから僕の半獸主義即刹那主義[#「半獸主義即刹那主義」に白三角傍点]の色を染めて行かうと思ふ。僕に取つては、これは久し振りの議論であるので、云ひたいことは序に何でも云つてしまうかも知れない。
今一つ云つて置きたいのは、太陽に出た長谷川天溪氏の『表象主義の文學』――これは、帝國文學に出た片山正雄氏の『心經質の文學』並に早稻田文學に出た島村抱月氏の『囚はれたる文藝』と共に、心血を注がれたと思はれる近來有益な論文であるが、創作の上から表象派の文學系統を辿られたので、且、メーテルリンクに至つて、あまり論じて居られないから、僕が、この論文の前半部で、渠の思想に最も密切な感化を與へた哲理家の系統を述べるのは、衝突でもなく又重複でもあるまい。それに又、メーテルリンクをその論文『近世戯曲』で見ても、イブセンの影響が隨分ある筈だし、また英國エリザベス時代の感化が非常にあるのは、マツケールも頻りに云つて居るが、それは渠の創作の方面であるので、僕の論文の性質から、そう云ふ問題はあまり云はないつもりである。
(二) メーテルリンクの神秘説
今、近世神秘家の系統[#「近世神秘家の系統」に白三角傍点]を、第一、スヰデンボルグ,第二、エメルソン,第三、メーテルリンクと定めることは、差支へあるまい。もつとも、スヰデンボルグが神秘派の開祖でもないし、エメルソンは神秘家と稱したものでもないが、最近のメーテルリンクから神秘説の道筋を辿つて行くと、大體はそうなるのだ。この本流には、種々大小の流れが這入り込んで來て居る[#「この本流には」〜「來て居る」に傍点]――シエリングの無差別哲學、ヤコブベーメの未生神分裂説、プロチノスの發出論、プラトーンのイデヤ説などで、それに東洋へ來れば、ペルシヤ、印度などの哲學はすべて神秘の色を帶びて居るのである。――僕が云はうとする神秘は丁度瓢箪[#「神秘は丁度瓢箪」に白丸傍点]の樣なものであつて、その上部のふくれはスヰデンボルグ、下部のふくれはメーテルリンク、この兩部の眞中を締めて居るのはエメルソンである。
先づ、メーテルリンクから初めよう――エメルソンの方は、近頃の青年はあまり知らないので、メーテルリンクを紹介されると、直ぐ驚いてしまう樣だが、エメルソンの哲理を知つて居るものには、メーテルリンクの價値は半※[#「※」は「減」の「さんずい」の部分が「にすい」、読みは「げん」、326−10]する譯である。然し、前者の詩となれば、全く散文的でお話にならない。近頃少し氣がきいた批評家は、新體詩を見て、この行は詩的だが、かの節は散文的だなどと云つて、その詩全體の發想振りが見えない。これはまだ詩その物に打撃を加へたのでないが――そう云ふのと違つて、エメルソンの詩は全く散文的と云つても善い,一口に云へば『何を歎くぞ、馬鹿者よ、この世は樂く送るべきものだ』と、かう云ふ調子である。之に比べると、メーテルリンクの戯曲はさすが神秘的であつて、論文に云つてあることがその曲中にも活きて居るが、論文その物の思想は大底エメルソンとスヰデンボルグとから出て居るのである[#「メーテルリンクの戯曲は」〜「出て居るのである」に傍点]。
さて、メーテルリンクは、一種の生命[#「一種の生命」に白三角傍点]を説いて居るのが、その論文の生命である。これに形容詞を加へて見れば、最高生命、絶對生命、神聖生命、超絶生命など云へるが、――エメルソンの哲學はまた超絶哲學である――これは外存的事實ではない、超官能的内存の眞理[#「超官能的内存の眞理」に白丸傍点]であつて,朦朧たる境界線、乃ち、僕等の意識と無意識との境界線上に起る情緒に包まれて居て、心靈はそこを隱れ家として居る。
神秘的作用はこの眞理から生ずる。夢に要素があるとして見れば、人間は乃ちそれと同じ要素で出來上つて居るので、自分と自分の周圍とには、神秘が充滿して居るのであるから、人間の知力では、その實體を時々瞥見することが出來るまでゞある。知力の根源となつて居る官能が粗雜であるので、知力では到底、滿足なところまで、神秘の世界に入り込むことは出來ない[#「知力の根源となつて」〜「出來ない」に白丸傍点]。意志に就いて云つて見ても、自分がかう爲ようと思つたのは、そう思ふ樣に必然的動機が祖先から傳つて來て居たからで、自分はたゞ分らないところへ分らないながら這入つて行くのである。神秘界は、畢竟、情を以て闇の中に感じる外はない[#「神秘界は」〜「感じる外はない」に白三角傍点]ので、そこに美もあるし、面白味もあるし、生命もあることになる。
僕がたとへば一愛人を得たとする。その得たのは、自分が自分の自由意志を以て撰定した樣だが、その實、之に施す接吻は、幾多の靈が、自分の知らないうちに、行はうとして待つて居た接吻である。この遺傳はたゞ現世の祖先からばかりではない、數千世紀の以前から、無形の間に傳つて來る。遺傳と意志と運命と[#「遺傳と意志と運命と」に白三角傍点]、これがメーテルリンクの神秘説を一貫して居る要目であつて――過去は遺傳で以つて僕等に傳はるし、僕等の未來は運命が既に定めてある,この間にあつて、意志が現世を抱いて深い海の底に沈むとすれば、たとへば一つの小い島の樣で、前後二つの和合しない大海が、その岸邊に寄せ合つて、互ひに噛み合ひをする。僕等の靈魂内はまことに騷々しいものだが[#「僕等の靈魂内はまことに騷々しいものだが」に傍点]、無言[#「無言」に白三角傍点]――神秘の星[#「神秘の星」に白三角傍点]――があつて、その上に住つて居るので、之が甘く統御して行く[#「があつて」〜「統御して行く」に傍点
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