ことである。然し、これはたゞ應用範圍の廣狹を外形的に云つただけのことで、悲劇その物の問題に關しては居ない。たとへば、他邦の音樂を耳にして、本統にその妙味を感じ得るものがあらうか、どうか。音樂は世界の共通的藝術だから、人種と邦國との如何を問はないとは、たゞ程度上の口辯に過ぎない[#「音樂は世界の共通的藝術だから」〜「口辯に過ぎない」に傍点]。プラトーンもその『理想國』で云つてある、『音樂の旋法が變動する時は、國家成立の法則も亦之と共に變動することが常だ』と。萬國民各々その風俗習慣を同じくして居ない、從つてその精神に於て差がある、その感情に於て別がある。更らに又これを發表する方法に於て似て居ないところがある。一個人と一個人との間にあつても、既に秘密が存して居るではないか,まして、遠く境界を隔てゝたま/\相接することが出來る國民の間で、互ひに各自の音樂が分り合ふと云ふ人があつたなら、たとへば自國語を忘れて、中途から外國語を話して居る人と同樣で、思想の根底の弱い、人情の輕薄な、あぶなツかしい音樂通であらう。
音樂の根底になつて居る音律[#「音樂の根底になつて居る音律」に白三角傍点]を見ても分る。音一個だけでは何の用も爲し得ないから、強弱の數音を列ねて律を作すのだが、その拍子が、西洋の樂譜[#「西洋の樂譜」に傍点]を讀んで見ると、四が普通拍子であつて、次に三、次に六、乃ち、三の重複か又は二の三個集つて居るのが出て來る。然し、わが國の樂曲[#「わが國の樂曲」に傍点]では――多年國樂の研究に從事して居られる、北村季晴氏の言ふところに據れば――二が標凖拍子であつて、四は二の重複して居るもの,六、乃ち、二の三個集つて居る拍子は、たまに他律の間に挿まつて居るばかりで,洋樂に普通な三は殆んどない[#「洋樂に普通な三は殆んどない」に白丸傍点]、田中博士などが、二拍子半、寧ろ三拍子なるものを、謠曲中に見とめられて、之を如何に解釋すべきかが疑問になつて居る程である。乃ち、謠の八拍子なるものは三拍子と二拍子との混合であるといふことである。この説が成り立つものとすれば、洋樂などには全くない、珍らしいものである。そこで、また詩の音律[#「詩の音律」に白三角傍点]を見ても、西洋の[#「西洋の」に傍点]を云つて見れば、アイアムバス(抑揚格)又はトロキー(揚抑格)の音脚が二を以つて成立し、アナペスト(抑々揚)のが三である外は、普通に行はれないダクチル(揚抑々)でも三であつて、一音は勿論だが、四音以上も一つの音脚に入ることが出來ない。ところで、わが國の詩[#「わが國の詩」に傍点]はどうかといふに、僕の研究して見た限りでは、二、三、並に四の音脚が交錯して居るのであつて、五以上が一脚に入らない。たとへば、『ほとゝぎす』、『つばくらめ』、『かきつばた』の如きは、二三又は三二の組織である。四を以つて脚を成立さすのは、たまには二の重複であるのもあるが[#「四を以つて脚を成立さすのは、たまには二の重複であるのもあるが」に傍点]、これが國詩の西詩と違つて居る條件の一つである[#「これが國詩の西詩と違つて居る條件の一つである」に白丸傍点]。然し、梵語の詩[#「梵語の詩」に傍点]を見ると、四音這入つた脚四個から成り立つて居るスロカ(Sloka)といふ八八調があつて、史詩の體には用ゐられたが、我國では、八八調、乃ち、四を四つ合はせたのを幾行もつゞけることは、急速で、うは調子の阿保陀羅經に用ゐる外は、少いので――雄大な八七(四四四三)調が、普通の律では、最後の長さであるらしい。それに又、英詩や伊太利詩ではアクセント、音勢[#「音勢」に白三角傍点]で行くのだが、音勢の少い、又は無いと云はれる日本詩や佛蘭西詩では、音量[#「音量」に白三角傍点]が主となつて居るので,之を誦する上から云つても、音勢で行くものは、音量を主とするものよりも、身體の律的活動に伴ふことが切實で、音量を主とするものは、音勢で行くものよりも、表情的節奏を利用する餘地が多い[#「音勢で行くものは」〜「餘地が多い」に傍点]。然し、僕が日本詩の律を二、三、四と定めた標凖は、或程度の音勢であることを記憶して貰ひたい[#「然し」〜「貰ひたい」に白丸傍点]。
かういふ風に考へて來ると、詩と音樂とに拘らず、各國それ/″\の異同があるのは事實であつて、たゞ一つ兩者の生命でもあり、また兩者の類似點でもあるのは、カントが直觀的だと確證した數なるものを活用すること[#「數なるものを活用すること」に白三角傍点]だ。そこで、シヨーペンハウエルは、また、音樂は概念の樣に抽象的空虚のものでない、明了な規定を有することは、幾何學の圖又は數の樣であつて、實質のない純形式のものだから、直觀的にたゞ神を寫すばかりだと云つた。渠が形式といふのは、まだ音樂では滿足が出來ないで、その跡へ意志絶滅の倫理觀を以つて來る前提であるから、渠の所謂音樂説では、かの別にまた神や、主義や、目的を求める論者と同樣、まだ最終無上の藝術は見えないのである[#「まだ最終無上の藝術は見えないのである」に傍点]。乃ち、渠はまだ新文藝の現出を知らなかつたのである。僕は新文藝の據つて立つべき數なるものを、直觀的だとは承知して居るが、渠並にカント輩の云ふ樣な形式だとは思はないのである。音響なり、言語なりを數の上に當て填めるところから見ると、成程、一個の純然たる形式の樣ではあるが、僕の刹那觀では、一刹那、即ち、一數より外存在して居ないのであるから[#「僕の刹那觀では」〜「居ないのであるから」に傍点]、その數は生命であつて、形式の如く他物に利用されるものではない[#「その數は生命であつて、形式の如く他物に利用されるものではない」に白丸傍点]。數その物の流轉盲動が、藝術になつて居るのである[#「數その物の流轉盲動が、藝術になつて居るのである」に白三角傍点]。
かう云へば、諸君は印度の數論哲學と希臘のピタゴラス派の學説とを思ひ出すだらうが、渠等は僕の最も避けて居る多元説若しくば二元説に落入つて居るのだ。ピタゴラス派[#「ピタゴラス派」に傍点]は十種の對峙を立て、太一を中心として、それから生じた幾多の被造物を見とめて居る。また、かの數論哲學[#「數論哲學」に傍点]の開祖であつて、梵天の子、ビシヌの化身だと云はれる加毘羅《カビラ》[#入力者注(5)]の物心二元論は、その弟子阿羅々仙人が悉達太子の質問に答へたところで分る――愛慾を離れて第一禪の梵天に住し、推理を脱して第二禪の光音天に住し、喜樂を捨てゝ第三禪の偏淨天に住し、意樂を去つて第四禪の廣果天に住し、更らにすべて形體の不完全を排し、客觀世界を否定して最高の梵天に達すると。釋迦牟尼が之を詰難して、なほ精神、乃ち、主觀の存在するからは、その性質として附隨する客觀を絶つことは出來まいと云つたのは、當前の詰難であらう。
たとへ一元論者[#「一元論者」に傍点]でも、こと更らに一如を觀じようとするなら、この大仙人の樣に消極的になつてしまうだらう。シヨーペンハウエルの意志斷滅論は勿論、エメルソンの唯心論、井上博士の活動以外實體存在説、近くはまた綱島梁川氏の見神實證談の如き、その意味するところを追窮してしまへば、一種の虚構物を設けて、それに固定ミイラ化するに終るのである[#「一種の虚構物を設けて、それに固定ミイラ化するに終るのである」に白丸傍点]。こんな説から、新文藝の生れないのは勿論、文藝と並行し得るだけの宗教や哲學の出來よう筈はない。若し梁川氏に藝術――氏から見て、宗教――があるとすれば、それまでに達した路筋にあるので、その到達點は、大きく云へばスヰデンボルグの枯死乾滅と同じで、全く論ずるに足りないのである。形而上學最後の大哲人とも云ふべきハルトマンは、ヘーゲルとシヨーペンハウエルとを受けて、理想と意慾なるものを設け、それを一絶對者の二方面と見爲し、意慾が理想に從つて解脱するといふことを虚構した人だが、美論にも假我と假象とを定めて、美を説明して居る。すべてこんな哲學や宗教からは、新文藝がます/\發展して行かうとするパツシヨネートソート(熱想)が出て來やう筈がない。
この講演の原稿を清書する時、最近の帝國文學を見ると、小山鼎浦氏の論文『神秘派と夢幻派と空靈派と』に、僕を空靈派の一人[#「空靈派の一人」に白三角傍点]に數へてある。かう見られたのは、僕に取つては知己を得た樣な氣がしたが、『その神と呼び、靈と言ふもの、畢竟修辭の上の粉飾に止りて、何等實感の生氣を傳ふる者に非る也。即ち此種の作家は神秘を戀ふるが如くして、實は空靈を戀へる也、否、戀へるに非ず、只戀ふるが如く歌ひ、且語る也』と云はれたのは、鼎浦氏が宗教信者の一人であるので、矢張り神、又は、それに類する虚構物を假現せずには居られない側の人だといふことが分る。氏の數へられた他の作家のことは、今こゝに論ずる餘地はないが、僕は决して氏の所謂修辭的粉飾を弄して居るものでないことは、これまでの議論で見ても分るだらうと思ふ[#「僕は决して氏の」〜「分るだらうと思ふ」に傍点]。半獸主義は空靈主義であるから、かういふ哲理を以つて創作する作物に、神佛がないのは無責任ではない[#「半獸主義は」〜「無責任ではない」に白丸傍点]。神とか、絶對物とかを設けるに從つて、その思想は枯死して行くのを知らない人々が多い。尤も、創作上の巧拙から、僕の詩には口でいふだけの用意があらはれて居ないと云はれるのなら、それは別問題とならう。
そこで、新文藝の起因[#「新文藝の起因」に白三角傍点]たる一數一刹那が既に神秘的なので、また樂曲の音符の樣に、その長短は比較的のもので、若し四斗樽の樣な肺を以つて居る人種が出來たら、現在の人間の平均の肺量では引けない長音を四分の一音符に定めると同樣、大天才があつたら、この刹那を根底から左右することが出來るのだ。流轉とは刹那の起滅を見たので、運命とは之が連續を觀じたのである[#「流轉とは刹那の起滅を見たので、運命とは之が連續を觀じたのである」に傍点]。この起滅と連續との間に表象的活現を爲す悲痛の靈を抽くのが、新悲劇の骨髄である[#「この起滅と連續との」〜「骨髄である」に白丸傍点]。かうなると、運命劇と稱せられるメーテルリンクの戯曲などは、たゞその一方面を描寫して居るに過ぎない。全體、運命劇なるものは、之と對峙して居る性格劇が、性格なる形式を作つて、それに立て籠ると同樣、運命なるものを何だか不可抗な力と見て、神とかエネルギーとかいふ樣な存在物と同樣な物を暗示するのであつて、いまだ徹底した作劇法に合つて居るとは云へないのは、性格劇と同じである。メーテルリンクに表はれて居る運命にでも、一種の形式臭いところがある。運命に由つて居るのは、かの暗算家が數を計へて居る間の生命であつて、大天才はたゞ一刹那を宇宙全體に擴張して示めすことが出來る[#「運命に由つて居るのは」〜「示めすことが出來る」に傍点]。運命を表示するは、その餘韻である[#「運命を表示するは、その餘韻である」に白丸傍点]。音樂と詩歌とに論なく、こゝに眞の夢幻と陶醉[#「夢幻と陶醉」に白三角傍点]とがあらはれるので――之はシルレルなどがいふ遊戯でもなければ、シヨーペンハウエルの所謂意志の臨時的絶滅でもない,悲痛自食の表象その物を見るので――悲劇には解脱とか、解决とかがない程、その實相に近いのである[#「悲劇には解脱とか」〜「近いのである」に白三角傍点]。
半獸主義から云ふと、悲愁と痛苦とを脱し得たと思ふのは、既に虚僞であると同時に、そんな事件が舞臺に出來ると滑稽な感じを起す樣になるだらう[#「半獸主義から云ふと」〜「起す樣になるだらう」に傍点]。父の亡靈と母の不義と自分の戀とに煩悶して居るハムレツトの最後が、母と叔父と自分との死に由つて消滅したと思ふのは、丁度、かの有名の喜劇的オペラ、ベートーヱ゛[#底本では「ヱ゛」は一字]ン作の『フイデリオ』に於て、フイデリオ、實はレオノラがその夫フロレスタンを奸人ヒザロの手から救ひ得て、『あゝ、云ふべからざる喜悦
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