、言語を絶する神秘的恍惚界[#「言語を絶する神秘的恍惚界」に白三角傍点]であつて、世の所謂永續的人格などが見とめられよう筈はない[#「であつて」〜「筈はない」に傍点]。悲劇――それが科白劇であらうが、樂劇であらうが――の極致は、こゝでないかと思はれる。徒らノ抽象的概念を並列重疊して、青空の下底にバベルの塔を築く哲學は、無論、舊來の短歌者流と同樣、この境内の神水を掬することは出來ない。宗教の或ものは、時として、夏雲の秀出でた樣に、その尖頭を神秘の紫電に焦すことはあるが、忽ち枯燥の形式に縮まつてしまう[#「徒らに抽象的概念を」〜「縮まつてしまう」に傍点]。たゞ刹那的文藝ばかりが、いつも活き/\として、自由にこの靈境に出入することが出來るのである[#「たゞ刹那的文藝ばかりが」〜「出來るのである」に白丸傍点]。
然し、これ程の文藝になると、知力だけでは、その作品の趣味は判斷することが出來なからう、また出來ないのである。情的實行が切實になればなる程、輪廓を好む知力に與へる印象は、勢ひ朦朧になつて行く[#「情的實行が」〜「朦朧になつて行く」に傍点]、これは、運命と共に起滅する情緒が幽暗玄妙な住み家を見付けて、自在の隱見を爲すからである[#「これは」〜「爲すからである」に白丸傍点]。燭を執つて後庭の菊花に向ふ、成る程、上品らしい貴族の面影が想像せられると同時に、それが直ちに聖賢知者の態度である,然し、その發光をも暗いと見て、獨り、暗夜に、馥郁たる香氣に醉つて居るものがある、これはまだ青春の物好きな世繼ぎ子でなければ、文藝家の一人でないことがあらうか。哲學は老い易い、宗教は枯れ勝ちである,獨り、文藝はとこしなへに若やいで居る[#「哲學は老い易い」〜「若やいで居る」に傍点]。然し、これは文藝その物の本然から云ふのであつて、不熟不整頓な文字と章句とから不得要領になつて居るのを指すのではない。無目的の宇宙が既に不得要領であるから、その實相に最も近いか、またはその宇宙と同化して居る文藝が朦朧なのは當り前である[#「無目的の宇宙が」〜「當り前である」に白丸傍点]。プラトーンは文藝を非難し、之に從事するものを模傚者と卑しんだが、これは、その當時の詩作を味ふだけの用意がなかつたのと、當時の詩人に卑劣な人物が多かつたからであらう。
然し、僕の説から行くと、舊慣の破るべきものがある。乃ち、確立すべからざる人格の打破[#「確立すべからざる人格の打破」に白三角傍点]である。道學者輩の人格論はもう論ずるまでもなくなつたが、坪内博士並にその他の頻りに主張せられる性格劇は、僕の半獸主義から云ふと(僕はまだ作劇の上で試爭するのではないから、それは斷つて置くが)、まだ、來らうとする新文藝の遵奉すべき形式ではない。シエキスピア流の作劇法はもう段々廢れて行かなければならない。一刹那の電光を描寫布衍する劇には、歴史的束縛を意味して居る性格などは不用ではないか[#「一刹那の電光を」〜「不用ではないか」に傍点]、たゞ暗中からひらめく靈果を、その塲で捕へさへすれば善いのである[#「たゞ暗中からひらめく」〜「善いのである」に白丸傍点]。それには、在來の夢幻劇の樣に、事件を主として登塲人物の人格にあまり重きを置かないから、蚯蚓《みみず》[#入力者注(5)]の如くたゞ一塲を切り取つて來ても、なほその効果を有する組織が、却つて善い方法の一つであらう。時處の統一の如きは、尚更ら重んずるに及ばない。僕から見れば不自然な性格追行と時處の統一とは、之に拘束される文藝を導いて、客觀的枯空の状態に落入らしめるのである[#「僕から見れば」〜「落入らしめるのである」に傍点]。シヨーペンハウエルならば、これが意志の藝術的客觀化であつて、之に對する間は、自分の意志の臨時的絶滅であるから、文藝その物の慰藉はこれから來るのだと云ふであらうが,これは、戀愛の趣味と同樣、客觀即ち非我の表象を喰つてしまへば、跡は更らに慘憺闇黒の自我が殘るのであるから、渠の如くまた別に意志絶滅主義の倫理を建てない以上は、それを以つて滿足することは出來ないのである。倫理又は主義に導く創作は、まだ最終極致の文藝とは云へないのである[#「倫理又は」〜「云へないのである」に傍点]。
然らば、僕の所謂劇を組織する要素[#「僕の所謂劇を組織する要素」に白三角傍点]は何かと云ふに、諸表象の盲目的活動とその衝突と[#「諸表象の盲目的活動とその衝突と」に白丸傍点]である,乃ち、意志と意志との喰ひ合ひである。短言すると、自然即心靈の活現である。それが刹那的表象の作用を借りて、或は事件にもならう、或は人物にもならう、或は又動作にもならう。一大天才があつて、かの夢幻劇を整理することが出來たなら、僕等の渇望するドラマが組織されようと思はれる。メーテルリンクの所謂『靜的悲劇』は、少しも動作を見せないで、月郊氏の所謂『神秘の玄を捉へ、超絶の無意識を示さんとしたる』發案であるが、發案者身づからその『近世劇』で、『何を爲《し》ようとも、どんな怪事を發見することがあらうとも、舞臺の最上法則、その本然の要求はいつも動作であらう』と論じて居る。動作があれば、人物が出よう、人物があれば、事件が出來よう,そこで、月郊氏は、メーテルリンクの發案した靜止劇なら、『寧ろ叙事詩の體[#「叙事詩の體」に傍点]を用ふるに如かざる事なきか』と云はれた。僕の試作した『海堡技師』に對しても、之と同じ樣なことを云つた評家が二三名あつた。然し、僕も舞臺上の効果からして、事件、人物、並に動作を以つては來たが、メーテルリンクの運命劇の行き方と同樣、そういふ手段を微塵に碎いた、跡の靈果を一般の觀客に感得さしたいのである。在來の夢幻劇は碎いてもまだ蚯蚓の一片に過ぎないが、僕のは砂の如く碎けて、而もその一粒/\に靈感を持たせたいのである[#「在來の夢幻劇は」〜「持たせたいのである」に傍点]。從つて、登塲する人物が性格よりも寧ろその塲/\で發表する冥想を重しとするやうになつて來るのは、止むを得なからう[#「從つて」〜「止むを得なからう」に白丸傍点]。『プラグマチズム』の世界觀を藝術に移して見れば、矢張僕の説になる。知力ばかりでは達し得られない神秘世界は、藝術上の經驗主義なる自然主義――一段古い語で云へば、寫實主義――の根底に、初めから横たはつて居るのである。天才の冥想が之を直寫して、劇となつたものでなければならない。
僕の試作が充分にそれを顯はし得たかと云つて貰つてはまだ困るが、かういふ劇を大成する天才が出て來た曉には、その創作は事件の進行よりも、人物の出入よりも、一番に獨白[#「獨白」に白三角傍点]を主とするやうになるだらう。登塲人物が偉大なれば偉大なる程、つひには獨白劇、否、更らに進めば、無言劇になつてしまうだらう[#「を主とするやうに」〜「なつてしまうだらう」に傍点]。僕は、そういふ塲合に豫想の出來る事件と動作とを、最も純粹自然の要素として、先きに云つた要素に加へたいのである[#「僕は」〜「加へたいのである」に白丸傍点]。諸君も考へて見給へ、かういふ時は乃ち孤獨悲痛の大心靈が、一劇塲の舞臺を刹那として實現して來た時であらう。若し舞臺なるものに關係なく、之を歌ひ得る詩形を求めたら、それはソネト式の作品であらう。だから、僕の所謂『冥想劇』の最上なるものは、譬へて見れば、幾多のソネト式の臺詞を列ねて組織された戯曲であつて[#「僕の所謂」〜「戯曲であつて」に傍点]、更らに進んで『冥想悲劇』とならなければならない[#「更らに進んで」〜「ならない」に白丸傍点]。
(二十二) 新悲劇論――シヨーペンハウエルの音樂論を破す
僕の議論はあまり長くなつたので、この悲劇論を以つて終結さしてしまはう。然し、もう、今まで云つて來たことと、前段の文藝觀とで、新悲劇の本體は分つた筈であるから、こゝでは直ちに世間でよく見る、音樂に對する悲劇の誤見を破ることにかゝらう。
前にも引用した、谷本博士の論に據れば、わが國將來の國劇は、無論、科白劇と音樂劇とが兩立することになる,して前者が喜劇で、後者が悲劇である。且、博士身づからシヨーペンハウエルの主張に從つて、喜劇は人事の現象界を寫し、悲劇は世界の實相界を描くのだと説明してある。言語を用ゐる劇が現象界を寫し、音樂に由る劇が實相界を描く,なぜ、こんなことを云はれたかと云ふに、これはシヨーペンハウエルの詩歌と音樂とに關する謬見から來て居るのである。喜劇は僕の問題でない、また、博士の所謂悲劇、即ち、樂劇の二要素なる夢幻と陶醉とに關する僕の意見は、もう、前段で云つてしまつたと思ふ。
そこで、シヨーペンハウエルの美論[#「シヨーペンハウエルの美論」に傍点]を云つて見ると、諸藝術のうちで、音樂は最も勝れたものである。その理由は、單に時間的成立を許すもので、少しも空間的關係や原因結果の智識を入れない,音響その物が既に結果であるから、現象と直接の關係はない,他の美術の樣に、個體的理想を示めさないで、直ちに意志の本體を客觀化するからである。今、意志の本體を無目的とし、音響を原因のない表象とし、時間を刹那の連續として見たなら、僕の文藝觀とどこに違つたところがあらう。相違がないなら、來たらうとする新文藝には、また科白劇と樂劇との差別に由つて、悲劇の効果を論じないのである[#「來たらうとする新文藝には」〜「論じないのである」に傍点]。概念的文藝でない以上は、言語も表象であれば、音響も表象だ[#「概念的文藝でない以上は」〜「音響も表象だ」に白丸傍点]。若し概念の樣な抽象物ではなく、直觀的に世界を表出する爲め、音樂を普通言語と云ふなら、同じ理由を以つて、表象的言語を普通音樂だと云へる。渠は音樂の普通的なるを證明するつもりでもあらう、一つの曲譜に種々の詩歌が當て填められることを云つて居る――これは、たとへば、わが國の長唄の樣に、その發想法が緩慢であるので、叙情句でも、叙事句でも、勝手に當て填められる節もあると、田中博士の云はれたことがある、その意味なら、もツと嚴密な發想法を用ゐれば、詩歌の應用範圍が縮まるわけだが――然し、それも、五十歩百歩の違ひであつて、詩歌の方から云へば、矢張り同じことが云へよう。苟も表象的藝術である以上は、音樂と云はず、詩歌と云はず、すべて固定の意義があり得ないのである[#「苟も表象的藝術である以上は」〜「あり得ないのである」に傍点]。宇宙の本然から來る朦朧は、乃ち、表象的藝術なる詩歌と音樂との特色であるのだ[#「宇宙の本然から」〜「特色であるのだ」に白丸傍点]。
十年以前から象徴、即ち、表象文學の紹介者たる上田敏氏も、矢張りこの謬見に落入つて居られると見え、曾て、どこかで、藝術の妙味はまだオペラでは足りない、必らず歌辭を離れた器樂ばかりの發想でなければならないやうに云はれたことがある。新文藝の主動者の一人であらうとする氏に取つては、少し、否、大いに似つかはしくない意見ではないか。最上の感興に、言語が面倒臭いなら、音響その物も邪魔であらう[#「最上の感興に」〜「邪魔であらう」に傍点]。世界の萬事萬物の必らず歸着する無言と空靈との中から、光線の樣に發射して來る音響と言語とでないか[#「世界の萬事萬物の」〜「言語とでないか」に白丸傍点],それに抽象的概念を與へるのは、哲學者と歴史家との惡戯である[#「それに抽象的概念を」〜「惡戯である」に白三角傍点]。哲學者たるシヨーペンハウエルが、諸藝術のうち、音樂ばかりが間接的の概念に由らないと云つたのは、新詩歌と新戯曲との意義を知らなかつたからで――一つの根音から、長短、高低、強弱、異色の諸音が連續して、音律となり、旋律となつて、音調の和諧を聽かす,それが急速な時は愉快に感じ、それが遲緩な時は悲痛を覺える。然し、その音調の和諧とは、表象的用語の統一と同じ物であらう[#「然し」〜「同じ物であらう」に傍点]。
かうなると、音樂最上藝術論者の根據とするところがたゞ一ケ條殘つて居る,言語は一國に固有されて居るが、音響は萬國の共有物だといふ
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