まで云つたところを以て分るだらう。
これは、目明きを以つて任ずる知力なるものを頼り過ぎたから、渠も哲學者の仲間として、そんな不徹底の論據に立つたのだらう。エメルソンが目を最高の建築家と云つたのは、外形の美を標準としたからで――知力も亦宇宙を建築して見るものだが、その出來た家は何かと云へば、符合とか、調和とか、差別とか、論理とかに過ぎない。知力はすべて宇宙の輪廓をつたつて行くばかりであつて、内部生命に入ることは出來ない[#「知力はすべて」〜「出來ない」に傍点]。人は知力の進歩を夢見て居るのであるが、既に大雪の平等化力を以つて譬へた通り、五十歩百歩の差を大悟と迷妄との違ひかの樣に思つて居るからである。僕は再び斷言する、頓悟とはまた別な迷ひに這入《はい》ることである,運命の黒流にのぞんでは、聖賢も小兒と變はりはない。目明きの生涯は短い、盲目の生命は久遠に渡る[#「目明きの」〜「久遠に渡る」に白丸傍点],天地はその塲に轉覆するが、刹那は刹那に連續して居るのである[#「天地はその塲に」〜「居るのである」に傍点]。
『自然には終りがない』、終りがないのは到達點のないのである。運命も自然である。自然も盡きない悲痛である。幽靈でさへ絶えず死といふ恐怖に惱まされて居るのであつて、自分が死んだ記憶はあるまい,死なないのは、刹那の連續を觀じて居るからで、死を恐れるのは、刹那の起滅に自分の變形する機を見てあやぶむからである[#「刹那の連續を」〜「あやぶむからである」に白丸傍点]。カライルが神にも悲痛が絶えないと云つたのは、乃ち、これを知つて居たのだらう。シヨーペンハウエルが如何にもがかうが、エメルソンが如何に悟り澄まさうが、刹那と悲痛とは僕等に絶えるものではない。僕等の靈が歎き疲れて眠つて居る間に、宗教や國家や結婚の樣なものが、いつの間にか成立して居るが、覺めるとまたもとの煩悶である[#「僕等の靈が」〜「煩悶である」に傍点]。心靈なるものは、夢の間にも煩悶して居るのが眞相である。その覺めて居るのが知力であつたにしろ、また意志であつたにしろ、歸するところは、情的實行[#「情的實行」に白三角傍点]――たとへば、戀、戰爭等の如きもの――が僕等の生命を與へて呉れる。
神秘の門は情的實行に由つて開らけるのである[#「神秘の門は情的實行に由つて開らけるのである」に白丸傍点]。目的を有しようと思ふと、もう、その門内に蝙蝠の樣に飛びかふ、表象を捕へ得ない。だから、流轉を生命とする僕等に人格を強いるのは、却つて人情に反して居ると云はなければならない[#「流轉を生命とする」〜「云はなければならない」に傍点]。――その刹那と共に、少しもとゞまらないのではないか。醫者の方から云はせても、僕等の身體は時々刻々變遷して居るのである。まして、道學者の所謂人格は、移り易い心に關することだ。近いたとへが、僕等が道をあるいて居る時、初めて知つた道だが、ふと、これは以前に一度通つた樣に思はれることがある。心理學者に云はせると、それは精神の錯亂から來ると説明するだらうが、その精神なるものは既に悲愁と痛苦との爲めに亂れて居るのであるから、僕にはそんな説明は當り前としか取れない。進んで云へば、これは、一つの靈が歩行中の一刹那に捕へた考へを、一刹那後の靈が想ひ出して居るのである[#「これは、一つの靈が」〜「居るのである」に白丸傍点]。僕が或時死んだ兒を火葬塲に持つて行き、そこに一夜を過し、遺骨の包みを提げて家の門まで歸つて來ると、もう、その兒が出て來て自分を迎へさうなものだと思つた。僕の靈はその時一日前の状態に返つて居たのである。今一つ例を擧げると、或小兒が、その小妹を失つてから、もう二三年も經《た》つた時、或神社の境内で、死んだ妹にそツくりの兒を見、その母の名を尋ねると、自分の母の名と同じであつたので、之を脊負つて泣きながら自分の家へ連れて來たことがある。この二つの小靈が邂逅した神社は地獄であつたかも知れない、無邪氣な悲痛の刹那がたま/\こゝに暗合したのである。僕等の靈は决して一處に持續して居るものではない[#「僕等の靈は决して一處に持續して居るものではない」に傍点]。現世の形心を土臺にして人格を造り上げようとするのは、砂に文字を書く樣なものである[#「現世の形心を」〜「書く樣なものである」に白三角傍点]。情的實行は、ロングフエローが『人生の歌』に歌つた樣な、『明日毎にわれ等が今日よりも進んで居るのを發見する』のではない。
たゞ單に實行と云つても、僕のは倫理學者などの云ふのとは違つて居よう。プラトーンは、王陽明などと同じ樣に、知行合一を唱へた。ところが、歐米最近の哲學界には、活動を中心として、僕等の經驗が乃ち宇宙その物だといふ立ち塲から、實用にならない知識は知識でないといふ學説――プラグマチズム――が餘程勢力を持つて來た。實用といふ語が僕等に何だか厭な感じを與へるが、兎に角、輪廓のみ辿る哲學者等のうちに、僕等の情意的方面にその心を寄せて來たものがあるのは喜ぶべき状態である。知識にせよ、實用にせよ、之を情的に體現するところに、神秘の關門があるのだ。生命はこの關門をくゞつて奔流して來るのである。
どうせ、僕等は實行の活物である。だから、ロングフエローの『人生の歌』も現世主義から出たのであらう。僕も現世主義を發足點とはしたが、うそにも向上的人格を標榜して、自他を欺く樣な考へは持てない。半獸主義の刹那觀は、前にも云つた無目的の表象を喰つて活きて居るのである。それが戰爭とならうが、戀愛とならうが、殘忍酷烈であつて、進歩も墮落も見えるものではない。僕等の靈が刹那の存在を爭ふのであるから[#「僕等の靈が刹那の存在を爭ふのであるから」に傍点]、苦悶その物が生命である[#「苦悶その物が生命である」に白丸傍点]。かの妹を失つた兒がその表象を脊負つて家に歸つた通り、若しこの苦悶を一刹那に擴張し、發展し、實現するものがあつたら、世の知者よりも、豫言者よりも、更らに偉大な人物であるだらう。プロシヤ王のことは度々引用したが、また豐太閤とナポレオン[#「豐太閤とナポレオン」に白三角傍点]とはその好適例であらう。ナポレオンが『意志のあるところ、必らず道あり』と叫んで、大軍を率ゐてアルプスの嶮を越えたのは、僕の半獸主義のモツトオと云つても善い。この時、渠の眼中には以太利もなかつた、墺太利亞もなかつた、獨逸も露西亞もなかつた、恐らく自國の佛蘭西もなかつただらう。その刹那の盲目的奮鬪が渠の大人格であつたのだ[#「その刹那の盲目的奮鬪が渠の大人格であつたのだ」に傍点]。豐太閤に至つては、渠、朝鮮を得たなら、大明に向つただらうし、明國を平らげたら、印度やペルシヤ、否々、世界をも討伐したであらう。然して、その目的とするところは、そんな外界の事件ではなかつた。渠は無意識的に、一國を擧げて、内部必然の安心を得ようとしたのである[#「渠は無意識的に」〜「得ようとしたのである」に傍点]。畢竟、大なる心靈が、大なる自分を喰つて行つたのである[#「畢竟」〜「行つたのである」に白丸傍点]。煩悶の盲動である。だから、光秀征伐時代の秀吉は、機智があまり多くつて、人の同情を引かないが、征韓時代の豐太閤は大愚に似て、而も神々しいところがある。この兩傑とも、熱誠を以つて國家の内部生命をたゞ一刹那に賭したので、僕の所謂威嚴も權力もそんなに偉大に發揮することが出來たのである[#「この兩傑とも」〜「出來たのである」に白丸傍点]。渠等はその熱烈な本能を滿足させる外、何物も分らなかつたのである。乃ち、盲目的神秘界の實現[#「盲目的神秘界の實現」に白三角傍点]と云つて善い。
(二十一) 刹那的文藝觀
豐太閤と云ひ、ナポレオンと云ひ、すべてかういふ風に解釋して見ると、國家の内部生命となつて居る文藝と同格であるのだ。文學と藝術とは、最も個人的、最も刹那的のものであつて、刻々盲轉する表象的神秘界を出來るだけ偉大に、また出來るだけ深遠に活現したものでなければならない[#「文學と藝術とは」〜「活現したものでなければならない」に白丸傍点]。文藝の本旨[#「文藝の本旨」に白三角傍点]は、豐公奈翁の行き方と等しく、刹那の起滅を爭ふ悲痛の靈を活躍さすにあるのだ。云ひ換へれば、自我を食ふ心靈の活躍さへ出來れば、もう、その上に目的とか、主義とか、寓意とか、慰藉とか、人格とかがあつてはならない[#「自我を食ふ心靈の」〜「あつてはならない」に傍点]。かういふ僞物を備へなければならない文藝は、わざ/\自分の品位を下だして、或世俗的思想と觀念との奴隷になつて居るのである。
神秘界の表象には、今まで云つて來たので分る通り目的はない、從つて主義や寓意やのあるべき筈もない。天才[#「天才」に白三角傍点]は自分の餌ばとする悲痛の活動を直寫するものである[#「は自分の餌ばとする悲痛の活動を直寫するものである」に白丸傍点]。自然即心靈だから、僕の表象的刹那觀は即ち寫實主義である[#「自然即心靈だから、僕の表象的刹那觀は即ち寫實主義である」に傍点],而も、それがまた一刹那に覺醒した宇宙を寫實するのであるから、犬才ならば犬才だけの境界、蛇才ならば蛇才だけの範圍に短縮してしまう。之が爲めに寓意を用ゐたり、主義を入れたり、目的を與へたりしなければならなくなるのだ。もう、世の概念又は觀念その物を活物かと思ひ違へて歌ふ樣なものになつては、在來の短歌が花鳥風月を花鳥風月と詠んだり、タムソンの英詩が自然を官能的に樂んだりしたと同樣、如何に文句が巧みで、如何に言ひ廻しが上手であつても、かの寓意詩や主義小説よりも更らに墮落したものと云はなければならない。流轉的刹那の興味は[#「流轉的刹那の興味は」に傍点]、直觀を以つて捕捉しなければならない[#「直觀を以つて捕捉しなければならない」に白三角傍点]。僕等は大天才を待たずには居られないのである。
戰爭や戀愛の塲合には、まだ非我なる物を見とめる餘裕があつたが[#「戰爭や戀愛の塲合には、まだ非我なる物を見とめる餘裕があつたが」に傍点]、文藝は全く一刹那一存在の自食的表象である[#「文藝は全く一刹那一存在の自食的表象である」に白丸傍点],云ひ換へれば、天才が自分の天才を食ふ活動であるので――大天才の産物には、刹那的流轉を悲しむ大宇宙が現じないでは居られないのだ。乃ち、情的實行の最幽最妙のところ[#「情的實行の最幽最妙のところ」に白三角傍点]であらう。谷本博士は『國劇の將來如何』(帝國文學)に於て、ニーチエの主張に從ひ、藝術――特に樂劇――の極致は陶醉にあると云はれた。これは、一方に小我的夢幻性を立てたので、之に對して忘我的醉郷を設けられたのである。登張竹風氏の『藝術の二元論』(讀賣新聞)の一節をして、博士の立論を破らしめるなら『人心の奧底に潜める一切の悲哀、恐怖、欝憂等は、遺憾なく醉中に現ずるものだ』。舊來の哲學者と同樣、如何に大我小我の別を立てたとて、忘我の境界は虚構に過ぎない――若しあるとすれば、滅しない宇宙が滅した時のことであらう。夢中にも我は現ずる、醉中にも我は見える。シヨーペンハウエルもこの我即ち意志の臨時的滅却――乃ち、意志の客觀化――を以つて、文藝の與へる慰藉としたが,僕の半獸主義は忘我とか、意志の滅却とかは斷然否定するのであるから[#「僕の半獸主義は」〜「否定するのであるから」に傍点]、若し文藝に慰藉を求むべきものとすれば、どうせ慰藉と快樂とは得らるべきものでないから、いツそ、もツと盲動瞬轉するが善いと感奮させるところにあるのである[#「若し文藝に」〜「あるのである」に白丸傍点]。シルレルなどの樣に、文藝を解釋するに、人間の遊戯性を以つて來るのは、僕とは正反對である。この瞬間には、大自然の活動がそのまゝ無意味にあらはれるのであるから、諸氏の云はれた如く、夢の樣で、幻の樣で、また陶然として醉つて居る樣で――これが、エメルソンの悲的樂觀や、ニーチエの所謂悲莊的自悦が、暗示して居る境域であらう。こゝへ來ると、もう[#「こゝへ來ると、もう」に傍点]
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