ものでない。假りに嬉しみを肉とし、悲しみを靈と見れば[#「假りに嬉しみを肉とし、悲しみを靈と見れば」に傍点]、この兩者が白熱の勢ひを以つて活動融化するのであるから、悲喜相離すべからざる新境地が出來るのである[#「この兩者が」〜「出來るのである」に白丸傍点]。
諸君はホメーロスの歌つたケンタウロス(Κενταυροσ)を知つて居られよう。これは人面馬體の動物で、畫家はよく之を畫いて、調和の美と力とを示めさうとする。然し、調和といふものが、二物の善い工合に結合して居るばかりでは、まだ眞實ではない,二物がそのはじめから二つでないことを理解さすに至つて、最も莊嚴な眞理が活躍して來る[#「二物がそのはじめから」〜「活躍して來る」に傍点]のではないか。今、こゝに僕の偶像[#「僕の偶像」に白三角傍点]を畫かして貰はう――先づ、前面は胸のあたりから透明であつて、肉眼には見えないが、その顏までが靈であることを知らせるだけの用意を施し,後部は、また、獸の形であつて、如何にも剛健で、強壯なところがあるのを示めす。して、前後の連絡點をはツきりさせてはならない、どこから區別があるのか分らない樣に畫いて置く。寧ろ、前から見ても、後から見ても、同じ態度であらせたい。且、炎々たる火焔の羽根と殘忍酷烈な足踏みとを以つて、暗黒孤寂の彩雲を驅けらしめるのである[#「炎々たる火焔の羽根と」〜「驅けらしめるのである」に傍点]。この神秘的靈獸の主義[#「この神秘的靈獸の主義」に白三角傍点]は生命である、またその生命は直ちに實行である。この靈獸は僞聖僞賢の解脱説をあざ笑ふ[#「この靈獸は僞聖僞賢の解脱説をあざ笑ふ」に白丸傍点]。然し、これが靈と獸との二元的生物に見えては行かないので,自體を食つて自體を養ふ悲痛の相を呈し、たゞ内容がない表象の流轉的刹那に現じた物でなければならない。
かう云ふ怪物を世間の畫家が畫けるか、どうか、知らないが、これが僕の半獸半靈主義の神體[#「半獸半靈主義の神體」に白三角傍点]である。略して半獸主義といふが、既に半獸と云ふ以上は、僕の立ち塲から見て、矛盾して居るのであらう,然し、哲學に系統が立てば獨斷に落入ると同樣、一たび名を設けると、その名から引き出して行く精神を取つて貰はなければならない[#「一たび名を設けると」〜「貰はなければならない」に傍点]。それは、今まで云つて來たことで分らうと思ふ。主義としては、何も新らしくはない,歴史から見れば、諾册兩尊が、鶺鴒の飛び來たつてその首尾を搖がすを見て、美斗能麻具波比《みとのまぐはひ》を爲し給ひてから、何人も實行して來たものである。然し、世の道學先生、科學者輩の爲めに、その解釋と取り扱ひとが誠實と眞率とに遠ざかつて來たのも事實である。渠等は知力といふ短いはしごによつて、天上へ登らうとするのだが、到底登り切れないのだから、その天上と連絡して居る地心をも窺ふことが出來ない[#「渠等は知力といふ」〜「出來ない」に傍点]。何のことはない、精神界にあつて、消防夫の出初め見た樣なことをして居るのである。一刹那の情火が全世界を燒いて居るのを知つたら、渠等はその職を投げうつて自分等の平凡無趣味なことに驚くだらう[#「一刹那の情火が」〜「驚くだらう」に白丸傍点]。
多神教も、その原始の時代には情熱はあつたが、その死灰同前になつた偶像を耶蘇教が打破してしまつた。その耶蘇教もだ、マリヤや基督の樣な偶像があつた時代はまだ活氣があつたが、新教分派以來、段々と生命の枯れた博愛、正義、人道などいふ偶像が出來た。かういふ偶像を打破するのは、今度は、新文藝で――その先驅者イブセン、ダンヌンチオ、メーテルリンク等を、ヒウンカーといふ人が評論して、その論文集を『偶像破壞者《アイコノクラスツ》』と名づけたのは面白い。どうせ、一つの偶像が倒れても、また別のが出來る。たゞそれが原始的、本能的に情熱と活氣とを持つて居さへすれば、必らず自然主義の生命、乃ち僕の所謂神秘界に觸れることが出來るのだ。
半獸主義は、夏の雲の樣に碎ける哲學の系統と組織とを持たない,その代り、大海の活動と沈靜と深みとを有する情と共に隱見して來るのである[#「半獸主義は」〜「來るのである」に傍点]。この主義の神體は、哲學者にはスフインクスと同じく謎と見へようが、文藝家は宜しく之を拜してから新文藝の深奧を窺ふべきものである。
(十九) 熱誠と威嚴――國家問題
僕の主義から、自然に豫想せられるのは、熱誠と威嚴[#「熱誠と威嚴」に白三角傍点]とである。
或人、僕を攻撃して云ふには、半獸主義は獨善利己の主義であるから、熱誠や威嚴のあらう筈はないと。然し、時々刻々自分を救ふに急であつて、僅かに刹那の救濟をのみ脱しないように努むべきものが、何で他を返り見るいとまがあらう。――他を返り見るのは、既にその人の死を意味して居るのではないか[#「他を返り見るのは」〜「居るのではないか」に傍点]。人を思ひ、民を思ひ、國を思ふ間は、よしんば死んで居ないまでも、自我なる意志の半ば眠つて居るからで,一たびその意志が覺醒するなら、その時もう國家と民衆とは喰ひ盡されて居るのである。フレデリツキ大王が國民といふ觀念を外部に立てゝ居たから、自殺をしようとする迷ひも出たので、之を思ひとまつた時は、もう、自分を救ふ奮勵と努力との外は、何にも見とめて居なかつたのである。かう云ふ切實な時にこそ、熱誠はその人の存在を確立し、威嚴はその人の刹那を擴張する[#「かう云ふ切實な時にこそ」〜「刹那を擴張する」に白丸傍点]。自分がこの刹那に感ずる活動がいよ/\誠實なるに從つて、宇宙の威嚴はます/\大なる光輝を放つのである[#「自分がこの刹那に」〜「放つのである」に傍点]。偉大な人物とは、この刹那の光輝を吸收することが平凡な人よりも非常に熱烈なのを云ふのだ[#「偉大な人物とは」〜「云ふのだ」に白三角傍点]。
熱誠と威嚴との變形を權力[#「權力」に白三角傍点]と云ふのだ。權力は刹那に確立する個人に存じて居る。國家とは、宗教と等しく、偉大な人物の權力が拔け出た蝉殼である[#「國家とは」〜「蝉殼である」に傍点]。フレデリツキ大王の權力は、大王日々の流轉的老衰に從つて、プロシヤ帝國といふ形骸を殘したのである。木村鷹太郎氏の如きも、僕と同じく權力主義の人ではあるが、それを國家に與へて、國家至上主義を唱へられるのは、一大人物があつて、之を統轄して居る間ばかりしか眞理でないと僕には思はれる。宗教と云ひ、國家と云ふものは、孰れも結婚問題と同樣、自我の刹那的覺醒當時の遺物[#「自我の刹那的覺醒當時の遺物」に傍点]であるから、自我のまどろんで居る間は、自分で規定した法則を、誰れか他人が設けたものゝ樣に、遵奉して居るので――何も之を遵奉するのを急に廢する必要はないが、自分の生命とするところが矢張り別にあるのは、戀の塲合と同樣である。耶蘇がその教への批點を捕へようとしてやつて來たもの等に答へて、『カイザルの物はカイザルに返し、神の物は神に返すべし』と云つたのは、時の政府と衝突して居ないことを明言したのである。國家の内部的生命は、暗流の如く個人の胸中に流れて居るのである[#「國家の内部的生命は」〜「居るのである」に白丸傍点]。
自國の敗亡に臨んで、恬として之を返り見ないものゝ樣に、敵將ナポレオンと相見へて快談した、ゲーテの意氣は諸君も知つて居られよう。これは乃ち獨逸の文藝が、佛蘭西の思想界にも權力を及ぼした象徴である。また、かのペルシヤの大軍を撃退した跡で、アテーナイの文明が頓に勃興したが、これはその以前から見えて居たので、アテーナイ人が敵の大軍をサーモピレーに控へながらも、なほ且、終夜|抃舞《べんぶ》[#入力者注(5)][#入力者注(14)]歡樂に耽り、その宗教上の祭禮に熱狂する程の感興があつたからである。一國として、その根本的活機を握つて居る人物がなければ、その國家は既に滅亡したと同前である[#「一國として」〜「同前である」に傍点]。現今の日本の樣に、戰爭でなければ金錢、商業でなければ賄賂、成功でなければ詐僞,懷疑もない、煩悶もない、戀愛もない、失望もない、情もなければ涙もない有樣では、たゞ得意とから意張りばかり増長して、各個人によつて支へらるゝ國家の生命は空々寂々のものになつてしまうだらう。
第一、今回の日露戰爭に勝利を得た所以[#「日露戰爭に勝利を得た所以」に白三角傍点]を考へて見ても分る。それに就いては、一つ滑稽な話がある――或陋劣な日本人の耶蘇教師が二名、今度、わざ/\アメリカ傳道會社の依囑を受けて、印度へ講演をしに行つたが、その目的は、日本の勝利を得たのは决して非耶蘇教の力ではないといふことを説明するにあるのだ。詳しく云へば、日本主義とか、武士道とか、祖先崇拜とか、佛教儒教とか云ふものが勝利の原因でないから、印度人等も之が爲めに輕々しく耶蘇教を疎んじてはならないと教へる必要が、印度の傳道者仲間に生じたのだ。それで、二名の渡航者は、さま/″\考案したあげくが、耶蘇教と衝突のない科學的研究の應用[#「科學的研究の應用」に傍点]が甘く行つたことを非常な條件にしたさうである。これは笑ふべき窮策としても、一小條件にはなるだらう。木村氏の如きは『日本主義』の活現だと云ひ、また他の人々は『武士道』の影響だと云ふ。また、片山氏の如きは、『靈魂と國家』(帝國文學)に於て、靈魂が『因果の法則より脱がれて、絶對の自由と獨立とを得むとする努力』の然らしめたところだと云はれた。然し、僕は僕の説から、半獸主義の實現を以つて、諸氏の説明を抱含してしまいたい。
武士道の理想にせよ、日本主義の所謂忠君、國家、商工經濟の精神にせよ、靈魂の獨立努力にせよ、すべて刹那的自我の熱誠と威嚴とから出て來なければ、必要な問題とするに足りないのである[#「すべて刹那的自我の」〜「足りないのである」に傍点]。自我生命の處在が分つてから、はじめて權力の發展が確立する[#「自我生命の」〜「確立する」に白丸傍点]ので――エメルソンの云つた通り、人は各自の家と國とを造る、それが相集つて團結して居る國家と國家とが戰爭をしたのは[#「國家と國家とが戰爭をしたのは」に傍点]、嫌惡を含んだ戀愛[#「嫌惡を含んだ戀愛」に白三角傍点]である[#「である」に傍点]。團結的意志と意志との喰ひ合ひである[#「團結的意志と意志との喰ひ合ひである」に傍点]。その孰れかが一方の表象として呑み込まれてしまうに定つて居る。その間に人道とか、正義とかいふ觀念があらう筈はない[#「その間に人道とか」〜「筈はない」に傍点]――一瞬間の存在を爭ふ時ではないか。最も深い趣味はこの瞬間にあるので、日本が勝つたのは、僕の云ふ刹那的熱誠と威嚴との異名なる、權力が強かつたからである。
(二十) 情的實行――神秘の鍵
僕の半獸主義は、國家存立の根本を左右する力である、否、個人その物の死活問題を握つて居るのである。前にも云つた通り、偉大な人物なら、その刹那の生命に大宇宙を活現することも出來る。シヨーペンハウエルは之を消極的に見て、世界即ち意志の知力的斷滅を絶※[#「※」は「口へん+斗」、読みは「きょう」、354−39]したのである,渠に據れば、これには二個の段階があつて、その第一は博愛と慈善とを行ふこと、また第二は俗世を隱遁することだ。第一のは、世の聖人等の行つたところで、自分の存在を忘れて、他の爲めに同情するのであるから、僕には僞善の行爲[#「僞善の行爲」に傍点]としか見えないし、説く者自身も亦たゞ意志を忘却して居るばかりだから完全な方法でないと云つた。それで、第二のはどうかと云ふに、自殺しても意志の滅却にはならないからと云ふ點は僕と同見解であるが、肉體の慾望を一切制止して行くと、段々意志が消滅して、永世の平和に至ると説いたのは、矢張り自殺と同じ結果を來たすのであつて、自殺に由つては、到底、かの運命と共に起滅する悲痛の靈を安んぜしむることが出來ない[#「自殺に由つては」〜「出來ない」に白丸傍点]のは、今
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