。この杖がまたエジプト全國の河水を血と變ぜしめたのは、悲痛の餘勢とも見て善い。僕の所謂表象は、シヨーペンハウエルの云つた飢渇的[#「飢渇的」に白三角傍点]で、頼るべきところもない、縋るところもない、さればとて一刹那の顯現で、――暗中を探つて救ひを呼べば、響き來たるものは自己の聲ばかり。止むを得ず、表象がその表象を食《は》んで、そのまた表象を苦産するのである[#「止むを得ず」〜「苦産するのである」に白丸傍点]。僕等はその苦産の兒であつて、またこの苦産を重ねなければ、活動といふ生命が承知をしない。僕等は精神上で社會の人と喰ひ合ふばかりではない、自分で自分の身を刹那毎に喰つて居るのである。これが内部から來る必然だから、無論、精神の安んずるところはない――僕等は實に悲痛の靈[#「悲痛の靈」に白三角傍点]である。
 悲觀は到底僕等の免れ得られるものではない。如何に流轉はして居ても、これは生命と一緒につき纒つて居るのである。悲觀を脱したと思へば、また悲觀が來る,いツそ之を喰つて、之に堪へ、之を生命とするなら、表象はそこに活動の餘勢を振つて、自我の覺醒を來たすので――この覺醒の間が、文藝の慰藉[#「文藝の慰藉」に傍点]に堪へ得られるのである。然し、かのグリーン一派の自我實現説の樣に、一方に世界の實在として永久的自覺的の意識を立てゝ置く位なら、自我を實現するものがはじめからその中にあらう筈はない,若しあると云へば、大我小我の兩極端を假定する、例の僞善家の一類に過ぎない。かういふ人々には、僕が云はうとする眞の文藝的興味は分らないのである。

 (十七) 戀  愛

 以上述べ來たつたことを短言すると、僕のは自然即心靈説であつて、神と世界とを區別視しない、活動その物の外に求むべきものはなくツて、僕等はその内部的必然によつて表象を生命として居る。且、その生命は刹那刹那の起滅である。それで、僕等が平生の生活上、親しく經驗をして、この立脚地の最も切實に現はれて居ると思ふのは、戀愛[#「戀愛」に白三角傍点]である。この問題には、世間では必らず神聖不神聖の論が伴なつて來るが、既に心靈と自然との區別がなく、善と惡との並立がないのを承知したものには、肉慾ばかりに神聖不神聖を論ずる餘地を存して置く必要はない。靈愛なるものを假定して、それが神聖だと云へるなら、その一方に假定した肉愛も同じだと云へるわけで――フロツクコートの學者と宗教臭い俗物とは、こと更らに肉慾を否定するだらうが、存在する肉慾を否定――進んで云へば、斷滅――することが出來るなら、意志を斷滅すると同樣、世界の滅亡を意味するのである[#「存在する肉慾を否定」〜「意味するのである」に傍点]。また、眞宗の僧侶や大抵の耶蘇新教徒の樣に、肉靈二元論の見地に立つて、※[#「※」は「者」の下に「火」、読みは「に」、350−29]え切らない折衷説を持するのは、僕の潔しとしないところである。渠等の立ち塲は徹底して居ない、またその傳道は眞率でない。よしんば、眞面目であるにしろ、渠等の根性が卑怯であるから、たとへば、海底に輝いて居る眞珠を欲しがりながら、表面に嚴丈な金網を張つて、その上を東西にかけ廻る樣なもの――渠等に眞正の寳を得る時があらうものか。たゞ世間を憚つて、非信を宣し得ない歐米の紳士と好一對である。肉慾を蔽ふものは、その眞率の度に於いて、凉しい風を公然と飛び行くつがひとんぼにも劣つて居る[#「肉慾を蔽ふものは」〜「劣つて居る」に白丸傍点]。肉慾ぐらゐを隱くさないでも、なほ神秘なものが澤山人間にはあるではないか、そんなことに拘泥するから、却つて之に入ることが出來ないのである。
 罪と肉とを離れたら、その人は靈のものとなることが出來る、これはスヰデンボルグが『生命の教義』である,然し、僕の説の通り、靈も亦肉ならば、それを離れられよう筈はない。『女を見て色情を起したるものは、その心すでに姦淫したるなり』、これは耶蘇の教へである,然し、美人を見て色情の動かない樣なものは、その心すでに不具だと云はなければならない。ダンテの戀[#「ダンテの戀」に傍点]を聽いて、青年は非常にその純潔なところを喜ぶが、そんな意氣地なしの頭腦では、到底宇宙の眞相を知ることは六ケしいだらう。ダンテが拾歳の時ビアトリースを見てから、終生片戀をつゞけたのは大詩人であつただけ、ませて居たので、その時すでに肉を滿足させた點があつたからで、他に嫁したビアトリースに對しては、たゞ未練が殘つて居たに過ぎなからう。若しダンテに大きいところがあるとすれば、スヰデンボルグが三百|哩《マイル》[#入力者注(5)]遠方から自分の住地の火事を見とめたと同前、その肉を滿足させた仕方が、抱擁以外にあつたことだ[#「若しダンテに」〜「抱擁以外にあつたことだ」に白丸傍点]。僕はこの點を餘程神秘的に解釋すべきものだと思ふのである。
 婦人は平常無邪氣なことは小供と同前で、小供が菓子を貰つて之を相手に見せびらかす時と同じく、男子が自分に對して肉情を動かして呉れるのを喜ぶのが自然である。男子はまた或程度まで好き嫌ひの點を淘汰して、婦人の自然を迎へると、それで抱擁が出來る、また結婚が出來る。然し、結婚なるものは社會的制度であつて、法律同樣、自分の意に反して居ても、止むを得ず遵奉すべきだけで、結婚は戀愛の結果である時もあるが、全く戀愛その物とは問題が違ふ[#「結婚は戀愛の結果で」〜「問題が違ふ」に白丸傍点]。戀愛の極度は抱擁である[#「戀愛の極度は抱擁である」に白三角傍点]。西藏《チベツト》[#入力者注(5)]教の秘密神像には、交合を實現して居るのがある、またわが國でも、聖天の樣な教へには之を主として居るさうだ。日本の神代では、これが非常に開放的であつて、あまり耻ぢるところがなかつたのか、かの丹塗り矢の話で出來た神、富登多々良伊須々岐比賣《ほとたゝらいすゝぎひめ》ノ[#「ノ」は小書き]命の如きは、婦人の局部を名にまでつけられて居る。(尤もこれは、物ごゝろがついてから、耻かしくなつたのであらう、比賣多々良伊須氣余理比賣《ひめたゝらいすけよりひめ》と改名して貰つたらしい。)それで、抱擁といふことは、决して生物學者のいふ樣に、種族の種を繁殖さすのが目的でない[#「それで」〜「目的でない」に傍点]。然し、流轉の一轉機に生じた意志なる表象と表象とが、一時自他の區別を見とめ、宇宙の活動を二つに分離するので、そこだけの缺陷が出來るから、互ひに相滿たさうとして[#「然し」〜「相滿たさうとして」に白丸傍点]、たゞさへ飢渇的な蛇と蛇とが喰ひ合ひを初めるのである[#「たゞさへ飢渇的な蛇と蛇とが喰ひ合ひを初めるのである」に白三角傍点]。
 たゞ本能に滿足を與へれば、それで別なものになつてしまうのである。こんな塲合に同情のあらう筈はない、憐愍のあらう筈がない、また尊敬のあらう筈はない。だから、プラトーンが婦人共有を主張したのは尤もである,然し、メーテルリンクが、女であつたら男子論を書いて同じ樣なことをいふと同樣、婦人から云はせれば、男子共有論を出すのが當前である。エメルソンは結婚によつて戀愛の接續的功果があるやうに説いたが、これはほんの世間觀に止まるのであつて、スヰデンボルグと同じく、愛なるものは、その解釋の如何に拘らず[#「愛なるものは、その解釋の如何に拘らず」に傍点]、刹那的[#「刹那的」に白三角傍点]だといふことには一致して居る[#「だといふことには一致して居る」に傍点]。それでも、渠はまだ人格なるものを永續的だと思つて居るから、そんな附會を爲すので――人その物がすでに時々刻々變遷して居ることが分れば、もう、他のくど/\した未練は入らないのである。シヨーペンハウエルも滿足の决して持續的なものでないことを云つたが、愛情は萬物と共に刹那的の表現である[#「愛情は萬物と共に刹那的の表現である」に白三角傍点]から、今の花嫁は一分後の老婆である,一分後の花婿は、また一分前の老爺であつたかも知れない。一たび冷えた愛情が再び熱して來る時はあらうが、もう、先きの愛情とは一つでないのである[#「一たび」〜「一つでないのである」に傍点]。僕等は永續的結婚の成立を確立することが出來ない[#「僕等は永續的結婚の成立を確立することが出來ない」に白丸傍点]。一夫一婦とは、その瞬間に於いてのみ眞理である[#「一夫一婦とは、その瞬間に於いてのみ眞理である」に白三角傍点]。
 戀は丁度闇の中に一つの光が現はれた樣なもので、それが僕等の表象であると思へば、消えないうちに、僕等は直ちに之を吸ひ取らうとする。この瞬間は實に偶然に出來るのであつて、對手が貴族のお姫樣であらうが、賤民の子であらうが、そんなことはかまはない。メーテルリンクに據れば、相慕ふのは、何萬年も先きから、その運命で定つて居るわけだが、運命も亦刹那的のものであるから、千萬年は一刹那にあるのである[#「千萬年は一刹那にあるのである」に傍点]。たゞ渠の云つた通り、この刹那に『一つの靈が一つの靈を接吻する』のは事實であつて、この瞬間ほど兩者の自我が利己的奮勵[#「利己的奮勵」に白三角傍点]をする時はない。それもその筈で、僅か一瞬間|經《た》てば、もう、意志はもとの自分を食はなければならないから[#「僅か一瞬間」〜「ならないから」に傍点]、臨時の非我なるものが見えて居る間だけでも、その痛みの感じない他體を食つて、樂みとするのである[#「臨時の非我なるものが」〜「樂みとするのである」に白丸傍点]。然し、光の消えた跡は、以前の闇よりも一段暗く思はれる樣に、なまじツか短い樂みがあつただけ、その跡の悲みは一層増すのだから、僕等の戀は實に最も悲痛なものである。僕等の靈はよく之を知つて居るので、この一刹那を爭つて、胸中の情熱はその神秘的火焔を最も烈しく擧げる,而して男女の區別を忘れ、獸と靈とを分たない樣になつて、絶頂に達するのである。若しこの一刹那を脱すると、もう、百萬年の樂しい戀も、再び暗黒のうちに葬られてしまうのである。この點から、僕の説を自分で刹那主義[#「刹那主義」に白三角傍点]とも云ふのだ。
 所産の兒などは、結婚その物と同樣、別問題に屬して居るので――スパルタでは、小兒を親から分離して、その教育を國家が引き受けたなどは、最も味ひのある制度であつた。小兒はすべて戀の偶然産物である[#「小兒はすべて戀の偶然産物である」に傍点],これは、どこか遠方の暗處に居て、この世に生れて來るのを身づから渇望して居た小靈であつたのだから、親が之を寵愛するのは、たとへば、庭鳥が家鴨の玉子をかへして、自分の子だと思つて大事にしてやると同前――これ、また、何かの表象であらうから、やがて紫の水中に走り込むに相違ないのだ。

 (十八) 半獸主義の神體

 煩惱即菩提とは、俗曲にまでも亂用してあつて、佛家でさへもう古臭いやうに思つて居よう,然し、この大宇宙のうちに、一つとして全く新しいと云はれるものがあらうか、どうか。歴史といふ棺桶[#「歴史といふ棺桶」に傍点]を一度でもこぐらないものがあらうか、どうか。若しあるとすれば、それは、神も知らない、人間も知らない、また棒振りも、アミーバも、最小原子も知らなかつた世界が、別に何物かに依つて作られた時であらう。暗く光る琵琶湖のおもてを渡つて、今撞き出した三井寺の鐘が響くのは、歴史から云ふと、もう、何千世紀も以前の地獄で、一たび魔鬼のこゝろを驚かした聲である。然し、僕等の靈がその聲を聽いて、一刹那の表象に目が覺めた時は、肉即靈の新天地[#「肉即靈の新天地」に白三角傍点]を活現するのである。たとへば、戀の塲合に於て、人目の關はうるさい、友人の嫉妬は面白い、兩親の干渉は面倒だ、手を握り合ふのは嬉しい、子供の出來るのは心配だ,然し、かう云ふことを考へて居る間は、若し靈肉の人格なるものがあるとすれば、その人格が前後左右の空氣に散亂して居るのであつて、まだ一刹那の活世界を現じ得ないのである。男女が相抱擁する時の樣な熱愛は、到底、道學者輩の敬愛や、親愛や、友愛などゝ同一視すべき
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