』云々の二部合唱を歌ふのと違つたことはない。更らに適切な例を擧げると、一人の娘が騙された戀に熱中して、之を認許する父を『お父さん大明神』と拜むのと同じである。苦悶は解决の出來ないものだのに、之を解决しようとするのは、悲劇を喜劇に墮落さすのである[#「苦悶は」〜「墮落さすのである」に白丸傍点]。だから、科白劇を喜劇とし、樂劇を悲劇としようとするのは、全く根據のないことであつて、科白劇にしろ、樂劇にしろ[#「だから」〜「樂劇にしろ」に傍点]、無終無决の苦悶を活現してこそ、初めて眞の悲劇と云はれるのである[#「無終無决の」〜「云はれるのである」に白三角傍点]。然し、かうなつて來ると、神秘な數が非常に勢力が出て來るから、この點だけは音樂に近づくので[#「然し」〜「近づくので」に傍点]、科白劇にしても必らず律語を用ゐなければならなくなる[#「科白劇にしても必らず律語を用ゐなければならなくなる」に白丸傍点]、否、人間の使ふ言語中に潜んで居る瞹眛粗雜な音律が、自我の覺醒に連れて、自然と發揮して來るのが事實である[#「否」〜「事實である」に傍点]。
 僕の研究した範圍では、淨瑠璃にあらはれる人物[#「淨瑠璃にあらはれる人物」に白三角傍点]中、男子[#「男子」に白丸傍点]には、種々雜多の口調七百四十のうち、最も多いのは七五調の四三二三、三四二三、並に四三三二のいづれも二十四五あるのと、七七調の四三四三並に八六調の四四四二が各々二十三と、七六調の四三四二並に七五調の三四三二が各々二十とである。女房役[#「女房役」に白丸傍点]には三百五十九のうち、最も多いのは、七五調の四三二三が三十六で、次ぎは同調の三四三二が二十二、次ぎは同調の三四二三が十六と八五調の四四二三並に四四三二が十四五とである。子役[#「子役」に白丸傍点]には、五百十一のうち、多いのは七五調の四三二三が二十七と、十音五五調の二三二三が二十とであるが、九音調の二三四が十五も出て來て、七五調の他律と殆どおツつかツつになつて居る。惡形[#「惡形」に白丸傍点]には八百七十四のうち、多いのは七五調の三四二三が二十七と、同調の四三三二並に九音調の二三四が各々二十四五とであつて、八音調の四四と七四調の四三四とが割りに多くなつて居る。傾城役[#「傾城役」に白丸傍点]には、四百五十のうち、多いのは七五調の四三三二が二十八と、同調の三四三二が二十四と、同調の他律と同じ位なのが八五調の四四二三の十九で、六五調の三三二三が十三と、五六調の二三四二が十とは注意すべきものである。殊に七五調の二三二三二並に九音調の二三四が、女房役に多くツて傾城に少く、また、五五調の二三三二と三二三二、並に五六調の二三四二が傾城に多くツて女房役に少いのや、更らにまた七七調の四三四三並に八六調の四四四二が、女房役に少くツて傾城に多いばかりでなく、これがまた男子には最も多い現出の一つであるのは、最も注意すべきものである。また、同じ七五調でも、四三二三は女房役に非常な割合で出て來るし、四三三二が傾城役に多いし、惡形には三四二三が多いし、男子役には以上の三種が大抵平均して出て來る。
 序だから、時代に從つて格調の變遷した跡[#「時代に從つて格調の變遷した跡」に白三角傍点]を百分算を以つて尋ねて見ると、五七調[#「五七調」に傍点]は、最古より萬葉時代までに四割六分であるのが、古今集以後に至つて急に八分に※[#「※」は「減」の「さんずい」の部分が「にすい」、読みは「げん」、362−49]じ、中世歌曲に六分、近古時代以後は一分以下である。之に反して、七五調[#「七五調」に傍点]は、萬葉時代までが一分半であつたのに、古今以後に二割四分、近古時代に二割九分、近世唄ひ物に三割四分と増して來て居る。七七調[#「七七調」に傍点]は古今集以後の歌に最も多くツて、三割一分ある。十音調[#「十音調」に傍点]は近世の唄ひ物に最も多くツて、一割二分ある。八五調[#「八五調」に傍点]は、萬葉集などには全くなかつたのが、子供唄には一割七分ある。また淨瑠璃は最も人情の變化を現はすものであるから、諸種の格調が働いて居る[#「また淨瑠璃は」〜「働いて居る」に傍点]ので、最も多い七五調[#「七五調」に傍点]でも一割八分しかない代りに、十音調も八分、七六調[#「七六調」に傍点]も七分、八五調と六五調[#「六五調」に傍点]も六分、九音調も五分、七七調と萬葉集にはなかつた八六調[#「八六調」に傍点]も四分半ある。萬葉集には七分あつて、その後殆どなかつた五六調[#「五六調」に傍点]も三分ある。萬葉以來微かに隱見して來た六六調[#「六六調」に傍点]も三分半ある。一方から見ると、かう澤山の格調が百分中に現はれるのは、散文になつて來た證據ではないかといふ人もあらうが、それは時代の進歩につれて、人情が段々細微になつて行くのを合點しないからで、種々の情緒がそれ/″\適切な表情法を發見して來たことを知らなければならない。人間の動作にさへリズムがあることは、精神物理學者の研究して居る問題である[#「人間の動作にさへ」〜「問題である」に傍点],まして、悲痛熱烈の靈感を傳へる悲劇が、音律の整つて居ないやうでは、それこそ再び音樂以下の藝術だと云ふ論者に好辭柄を與へることになるだらう[#「まして」〜「なるだらう」に白丸傍点]。立派に散文詩と稱するものでさへ、之を讀んで見ると、そのうちに一種云ひ難い律があるのを見ても、僕等はこの點に非常な工風を要するのである。今日の舊俳優が不用意、不整頓の七五調になづむのも善くないが、新俳優の樣に、亂雜な用語に滿足して、律語を用ゐ驍セけの奮發と勇氣とのないのは、また誡めてやらなければならない[#「今日の舊俳優が不用意」〜「やらなければならない」に傍点]。
 音律の研究は更らに進んで廣くやつて見なければ、人物の種類と作品の性質とに對して、その一定の、または種々の、または、散文的の律語を用ゐる標凖を明確に斷定することは出來ない。然し、人間の動作に律があるから、舞臺に現はれる俳優には舞踊の素養を要すると同じく、言語にも亦律が必要なことさへ推定することが出來れば[#「人間の動作に律があるから」〜「出來れば」に傍点]、その音律と動作律とが、自我無言の覺醒する無目的活動に連れて、悲痛の靈と共に發現して來るのは當前なことであらう[#「その音律と動作律とが」〜「當前なことであらう」に白丸傍点]。悲痛の熱烈な程、その律に緊張の響が生ずる[#「悲痛の熱烈な程、その律に緊張の響が生ずる」に白三角傍点]。且、その上に運命なり、性格なり、事件なりがつき添ふて來るのは、自然即心靈の意味からして、また劇の運用上からして、止むを得ないことである。僕が處女作『魂迷月中刄』を作つた頃、故櫻痴居士は之を見て、そんな慘憺な悲劇はわが國には向かない、國人の嗜好は、人物の精神は勿論、身體迄の救濟に由つて、安樂に解决する悲喜劇[#「悲喜劇」に白三角傍点]であらうと云はれたことがある。これは、『朝顏日記』や『壺坂觀音靈驗記』などを指して居られると思はれた。僕はその時から居士の教に滿足して居なかつたが、今日では、その悲喜劇とは僕のいふ喜劇の部に這入るべきものである。
 僕の考へでは、谷本博士の所謂喜劇としての科白劇と悲劇としての樂劇との兩立ではない,この兩者のいづれであるにしろ、それが解脱と解决とを與へるものが喜劇[#「喜劇」に白三角傍点]であつて、全く解决のない冥想劇が悲劇[#「悲劇」に白三角傍点]である。深刻な自然主義でなければ、かういふ悲劇にあらはれて來る神秘趣味を捉へることは出來ない[#「深刻な自然主義でなければ」〜「出來ない」に白丸傍点]。ダンヌンチオやメーテルリンクの劇を見ても、用語の上から神秘を強ゆる傾向があつて、全體としては、まだ僕が思ふ樣な作劇の型とすべきものは一つもないらしい[#「ダンヌンチオや」〜「一つもないらしい」に傍点]。僕が寡聞なので、今、その他に例となる樣な善い劇を擧げることは出來ないが、小山内薫氏がジエームスヒウンカアと云ふ人の書から抄譯して、新小説に紹介せられた瑞典の劇作者ストリンドベルヒ――これは、前に論じたスヰデンボルグと同國人――の著『伯爵令孃ユリエ』を引いて見よう。(その後、僕も小山内氏から借りて、この書を讀んで見たが)、氏の紹介に基いて云ふのであるから、或は僕の方へ我田引水のところがあるかも知れない。ユリエは幽靈の樣な精神病者で、『色も香もない單調な生活に倦み果て』たあげくが、孟夏の狂熱に唆かされて、その身を『破廉耻至極な僕』のジヤンに任せた。いよ/\家を逃亡することになり、下僕は令孃にその父の金を盜ませる。令孃はまた寵愛の鳥を連れて行かうとするので、下僕は之を爼の上で殺してしまう。令孃は之を怒つて、下僕を呪ふ。そのうち、父伯爵が歸つて來たので、下僕は令孃に剃刀を與へて死ねといふ。やがてベルが鳴ると、下僕はもとの通りのジヤンになつて、令孃ユリエは自殺する。作者自身は之を『自然主義の悲劇』と稱したさうだが、この終末を以つて、人生の悲痛を解决したつもりでもなく、また觀客に解脱の念を與えられるものでもなからうから[#「この終末を以つて」〜「なからうから」に傍点]、僕はそこが氣に入つたのである[#「僕はそこが氣に入つたのである」に白丸傍点]。(その後、同人の悲劇『父』を讀んだが、同じ種類のものだ。)材料が卑近なのは、その作者の力量に由つて如何ともなる,メーテルリンクの如きも、その『日常生活の悲素』といふ論文に於て、『無限なる物の神秘的吟誦、靈と神との前兆的無言、久遠が地平線上の私語、運命即ち宿命にして、われ等がその身中に意識して居るもの、スとへどんな徴證に由つても語り得るものはないとしても――かういふ物はすべてリヤ王、マクベス、ハムレツトの基礎になつては居ないか』とまで云つて居る。
 天才を信ずる以上は、その作が世話物であらうが、時代物であらうが、そんなことには頓着しないで善い。僕は結論するが[#「天才を信ずる以上は」〜「僕は結論するが」に傍点]、當來の新文藝は、解脱と解决とのない表象悲劇であつて、それが冥想的で、また同時に律語の意に合つて居るものでなければならない[#「當來の新文藝は」〜「なければならない」に白丸傍点]――尤も之は一本調子の口調をつゞけよと云ふのではない――かう云ふ悲劇の存在するやうになると、シヨーペンハウエルが下だした藝術の定義の如きは、詩歌のは勿論、音樂に與へたのも、全然間違つて居ることが實證出來るのである。
 (明治三十九年二月十一日、鎌倉建長寺に於て開會せし國詩社集會席上の演説原稿)


入力者注
(1) 底本の読点には、普通の点と白抜きの点の二種類がある。白抜きの読点は、普通の句点と読点の中間的に文を区切るのに使われて居るようだが、ここでは白抜きの読点を「,」で表わした。
 (例)
  第一、物品,第二、美,第三、言語,第四、教練。
  ここで、「,」で表わした所が白抜きの読点になって居るところである。

(2) ギリシャ語の単語の末尾の「σ」は別の字体を用いるが、フォントがないので代用に「σ」を用いた。又、アクサン(´)付きの文字の場合アクサンを文字のうしろに置いた。本来は一字。

(3) 注記がなく、本文と底本とで字体の異なるものは、JIS X 0208:1997 の包摂規準に従い、代替漢字を使用した。

(4) はしがきに附録についての記述があるが、入力に使用した底本には附録は収録されて居ない。

(5) 入力者は底本にはないルビを若干追加した。

(6) 二一天作の五: 旧式珠算の割算九九の一つ。転じて珠算の計算。物を二分割すること。

(7) ピーアールビー: 底本では「ヒーアールビー」と誤記。"P.R.B." は、the Pre−Raphaelite Brotherhood の略。

(8) 瑞典: スウェーデン。

(9) 梨倶吠陀: リグヴェーダ。

(10) 以賽亞書: イザヤ書。

(11) 約翰傳: ヨハネ伝。

(12) 
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