して行くと、シヨーペンハウエルが世界の本體と假定した意志も亦表象で,それは、渠の所謂理想發現の等級を登りつめれば、その意志も亦下級の自然力と同じく盲動的で、目的があらうとも思へないからである。かうなると、哲學の用語はすべて消極的[#「哲學の用語はすべて消極的」に傍点]となつて、智識上の説明を絶してしまう。老子の無名、佛教の無我、スペンサーの不可思議、ハルトマンの無意識――盲動と云つたり、超絶と云つたりするのも、また別樣の消極である。
 井上博士は現象即實在論に『活動』といふ問題を入れられた。これは、シヨーペンハウエルの『運動』と同じく、ミルトンがその詩に於て豫想して居た星霧説、乃ち、カントやハーシエルやラプラスが種々の形を以つて發表した臆説――宇宙の中心には廻轉して居る一大勢力があるといふ――から出て來たのであらうが、尤もこれは、近世の哲學でヴントや、ジエームスや、プラグマチズム論者等も云つてるが、博士は活動その物が實在だといふのならまだ受け取れようが、活動といふのが實在の本性に最も近いとあるので――それでは、活動の解釋も消極的であつて、一向活動が出來なくならう。これは、矢張り、實在な
前へ 次へ
全161ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岩野 泡鳴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング