ク、この兩部の眞中を締めて居るのはエメルソンである。
 先づ、メーテルリンクから初めよう――エメルソンの方は、近頃の青年はあまり知らないので、メーテルリンクを紹介されると、直ぐ驚いてしまう樣だが、エメルソンの哲理を知つて居るものには、メーテルリンクの價値は半※[#「※」は「減」の「さんずい」の部分が「にすい」、読みは「げん」、326−10]する譯である。然し、前者の詩となれば、全く散文的でお話にならない。近頃少し氣がきいた批評家は、新體詩を見て、この行は詩的だが、かの節は散文的だなどと云つて、その詩全體の發想振りが見えない。これはまだ詩その物に打撃を加へたのでないが――そう云ふのと違つて、エメルソンの詩は全く散文的と云つても善い,一口に云へば『何を歎くぞ、馬鹿者よ、この世は樂く送るべきものだ』と、かう云ふ調子である。之に比べると、メーテルリンクの戯曲はさすが神秘的であつて、論文に云つてあることがその曲中にも活きて居るが、論文その物の思想は大底エメルソンとスヰデンボルグとから出て居るのである[#「メーテルリンクの戯曲は」〜「出て居るのである」に傍点]。
 さて、メーテルリンクは、一種の生
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