く實驗した上、これでは凡人を教へられないと悟つて、無理にも樂觀してしまつたのであるから、渠の樂天觀は素直でない、その唯心論と同樣、方便に過ぎないのである[#「渠の樂天觀は素直でない」〜「方便に過ぎないのである」に傍点]。こゝに一つ、僕が『代表的人物』を讀んだ時に、そのふちへ書いて置いた覺へ書きを拔いて見よう――これは寧ろ渠の云つたことで、今の僕が持つて居る考へだといふのではない,
[#ここから引用文、一字下げ]
『人物の要は天眞を發揮するにある、原因の化身にある、未然の前兆にある、進歩の一里塚たるにある。その首を天の川の流れに洗つて、その足は地獄の床を踏んで居る。然し、一たびわれ等の理想界に這入つて來れば、純潔な平民でなくてはならない。』[#ここで引用文終り]
 その頃は、大分エメルソンを讀んだ人が多かつた。山路愛山氏が自然論といふ少し長い文を書かれたり、『文章は事業なり』など云はれたのも、このコンコルドの哲人の同じ論や、『代表的人物』中のゲーテ論から出たやうであつた。また、『國民の友』記者の文體で、流暢だが、冗長であつたマコーレー式が、急にぽつり/\と切れる、含蓄のあるのに變つたのも
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