憾なく醉中に現ずるものだ』。舊來の哲學者と同樣、如何に大我小我の別を立てたとて、忘我の境界は虚構に過ぎない――若しあるとすれば、滅しない宇宙が滅した時のことであらう。夢中にも我は現ずる、醉中にも我は見える。シヨーペンハウエルもこの我即ち意志の臨時的滅却――乃ち、意志の客觀化――を以つて、文藝の與へる慰藉としたが,僕の半獸主義は忘我とか、意志の滅却とかは斷然否定するのであるから[#「僕の半獸主義は」〜「否定するのであるから」に傍点]、若し文藝に慰藉を求むべきものとすれば、どうせ慰藉と快樂とは得らるべきものでないから、いツそ、もツと盲動瞬轉するが善いと感奮させるところにあるのである[#「若し文藝に」〜「あるのである」に白丸傍点]。シルレルなどの樣に、文藝を解釋するに、人間の遊戯性を以つて來るのは、僕とは正反對である。この瞬間には、大自然の活動がそのまゝ無意味にあらはれるのであるから、諸氏の云はれた如く、夢の樣で、幻の樣で、また陶然として醉つて居る樣で――これが、エメルソンの悲的樂觀や、ニーチエの所謂悲莊的自悦が、暗示して居る境域であらう。こゝへ來ると、もう[#「こゝへ來ると、もう」に傍点]
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