學[#「カントの哲學」に傍点]と來ては、その思想の道筋が窮屈なこと、ミルトンどころではない、その上、何だか乾燥無味、蝋を噛む樣なところがあるので、『理性批判』だけでよしてしまつたのである。
 然しインチユイシヨン、直觀の必要[#「直觀の必要」に白三角傍点]なことは、渠の書から最もよく教へられたのである。宗教も直觀が必要である、詩は尚更らのことである。耶蘇や釋迦などが直觀的に大悟した刹那は、非常に偉大であつたに相違ないが、道を傳へようとする迷ひが出てから、形骸となつてしまつた[#「耶蘇や釋迦などが」〜「形骸となつてしまつた」に傍点]。世に傳へて來た神なるものが假定だといふことは、かのニーチエも説破した。――假定といふのが惡ければ、概念と云ひ更へても善い。哲學も宗教も、共に、直觀の邪魔になる概念を立てたので失敗に終はつたので――殆ど概念ばかりを傳へる歴史の樣なものは、ニーチエの云つた通り、人間の自由を束縛して、思想の自在なる發展を妨害して居るのである。人はこの概念といふ抽象物に由つて生活することになつてから、全く救ふべからざるものとなつてしまつた[#「人はこの概念といふ」〜「なつてしまつた」に白丸傍点]。
 貨幣論を讀むと、グレシヤムの法[#「グレシヤムの法」に傍点]といふものがある。これは、惡貨が善貨を市塲から追ひ出してしまうから、年を限つて、古くなつた貨幣を改鑄しなければ、同じ價格を持たすわけに行かないといふことである。人間も之と似たもので、大悟したのは、改鑄された當座であつて、また段々價値のないものになり下つてしまう[#「人間も之と似たもので」〜「なり下つてしまう」に傍点]。たゞ哲學者や宗教家があつて、自分の迷ひを僞つて、眞理とか神とかいふものに、無理に勿體をつけて呉れるのである。古貨幣にも意識があるとすれば、金八九圓の代物を十圓に通用させて貰ふのを有難がつて居るだらう。
 僕がはじめて直觀といふことに思ひ付いた當座、松島の大仰寺へ登つて獨禪を試みたことがあるが、ずツと跡になつてから、人の云ふ坐禪はどう云ふ工合のものかを知りたいと思つて、江州の紅葉の名所、永源寺を訪ふて、同派の管長、今は故人となつた某氏に會つて見た。話の中で、『禪の主眼となつて居るものは何でしよう』と、僕は尋ねた――尋ねたのも、何といふかとためして見たので――すると、向ふは少し考へてから、『まア、
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