間に意志もあり、自我もあるのだから、表象その物を離れては宇宙は全滅するのである。
僕のは、物質的並に精神的の現象が互ひに相轉換する表象として存在するといふのである[#「僕のは」〜「いふのである」に傍点]から、現象唯一論と同一視されては困るが,また、それと反對の方面で、シヨーペンハウエルは、井上博士の客觀主觀の立論と同じ缺陷を生じ、意志の眞實體なるものを定め、その物は時空と現象以外に存ずるので、多なることを得ないと云つた。これが早や無駄でなければ、この種の傾向がある論者の止むを得ない窮策だが,かう云ふことになると、その眞實體なるものが現象界に權化するには、種々の段階があつて、下は木や石から上は人類の樣なもので、高等なものが段々下等なものを制服するに從つて、完美な理想が現はれて來ると云はなければならなくならう。これは矢張りプラトーンのイデヤ想起説から來たので、スヰデンボルグ、エメルソン、その他すべての理想論者が、僕等を誤まる[#「これは矢張り」〜「僕等を誤まる」に傍点]僞善的論法[#「僞善的論法」に白三角傍点]と云はなければならない[#「と云はなければならない」に傍点]。近頃、渠等の口吻を眞似て、理想とか向上主義とか※[#「※」は「口へん+斗」、読みは「さけ」、346−1]ぶものが多い,然し、これは最も善を僞はるもの等で、僞善者の最下級である、道學的根性の最も嚴密に墮落した標本である。その古びた師匠とまだ固つて居ない末流とに論なく、渠等はすべてあるべからざる善惡を規定して、自分の怠慢と無氣力とを裝ふばかりである。
僕は渠等に向つて、眞率におのれの立脚地を究めたなら、意志その物も無目的な表象の所爲[#「意志その物も無目的な表象の所爲」に白丸傍点]であることが分ると知らせたいのである。
(十三) 善惡の否定
性善性惡の爭論はもう古臭くなつてしまつた。僕の論旨から云ふと、宇宙は根より水を吸ふ時は草木である、口より食を入れる時は人畜である[#「僕の論旨から云ふと」〜「人畜である」に傍点],性善を標榜し、または性惡を主張する時は、その間ばかりは、孟子又は荀子の樣に、内容もない善惡の別塊である。善惡混合を云ふ時は、またその間ばかりは、善惡の混合物である。假りに僕に内外の區別があるとして、その内外からやつて來る必然の前には、君子もあらう筈はない、小人もあらう筈はない。
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