るのだ。
(十二) 意志と現象
自我の發揮して來るのは、生きたいと云ふ本能の然らしめるところであつて、本能の内部的必然力を運命と云つても善いし、また意志と見ても善い。
僕の云ふ運命を、活動の方面から見ると、意志である[#「僕の云ふ運命を、活動の方面から見ると、意志である」に白三角傍点]。これは、その發音に於いて同じの、而も、實物は頑強に見えるが、表象的には透明なことがかの捕へやうのない夢と等しい鑛物に異なつて居ないのである。スピノーザは、空中を飛ぶ石にして、若し意識があつたら、必らず自己の意志を以つて飛揚して居ることが分るだらうと云つた,シヨーペンハウエルは之を云ひ換へて、石を投げるのは動機であつて、その重力、個體性等は意志だと説いたが、更らに重力の本性を以つて物體固有の嫌忌や慾望の念とする、オイラーの語に注意してある。いづれも僕の云ふ表象の轉換を證明して居る譯で――意志の活動を辿つて行くと、僕等は野中の一つ岩を抱いても、心靈の熱を取ることが出來るのである[#「意志の活動を」〜「出來るのである」に傍点]。岩から見れば、僕等もそれ/″\岩に見えるのだらう――萬物はこの轉換の感じがあるので、生命もある――この表象的轉換がなくなつたら、宇宙の外形と内部とは忽ち絶滅してしまうことが想像せられるのである[#「この表象的轉換が」〜「想像せられるのである」に白丸傍点]。
さすが、シヨーペンハウエルは印度思想を知つて居ただけ、その云ふところの意志も面白く解釋が出來る。例の華嚴經中の譬に比べて云ふと、萬物はすべて十、乃ち、意志を本性として居るので、如何に極小な本性でも――乃ち、十から云へば、五、六、四又は一中の十,意志から云へば、最小最低の現象でも――若し之を世界から消滅さすことが出來るとすれば、同時に全世界の消滅が出來ることになるのだ。僕等の本能が死を好まないのは、自然の結果である[#「僕等の本能が死を好まないのは、自然の結果である」に傍点]。火から熱を取れば火もなくならうし、熱から火を取れば熱もなくなる,と云つて、火即熱の實體を別に持つて來るのは、假定と云はなければならない。僕の運命とか、生命とかいふものは、科學者のエネルギー又は宗教家の神などの樣な、假定の永存實體ではない、たゞ表象の轉換移動の個處個處[#「表象の轉換移動の個處個處」に傍点]を連ねて見たばかりで、その
前へ
次へ
全81ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岩野 泡鳴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング