あこがれるのは普通の戀、然し最高のは眞善美その物を慕ふ知力的究理心である。所謂プラトーンの愛[#「所謂プラトーンの愛」に白丸傍点]。渠の知力なるものは、輪廻的修養の土臺となつて居るだけ、道徳的に見られるから、そういふ説も立つのであらう。
 スヰデンボルグはこの説を自分の天才に消化して、『コンジユガルラブ[#「コンジユガルラブ」に白三角傍点]』(夫婦の愛[#「夫婦の愛」に白三角傍点])を書いた。プラトーンの『宴會篇』に當るものだ。心靈は向上的であるから、その發表する愛情又は友情は自然と刹那的のものである[#「心靈は」〜「刹那的のものである」に白丸傍点]。――この刹那的といふことは僕の説にも大切なものだが――愛するといふは同一の眞理を見て居るといふこと[#「愛するといふは同一の眞理を見て居るといふこと」に傍点]で、兩者の一方が一段うへの眞理に目を轉ずると、そのまた一方との關係は絶えてしまうことになる。それで、前者は自分の新たに見る眞理と同一のを見て居るものと一つになるのだが、それも亦向ふの方が一段高くなると、棄てられてしまうのである。人の性根は一定不動のものではない、心の状態に從つて、男ともなるし、また女ともなる[#「人の性根は」〜「また女ともなる」に白三角傍点]――慕はれたのが男、慕ふのが女で、僕等は慕ひ、慕はれながら、乃ち、かたみに男女と變性しながら、向上するのである[#「僕等は慕ひ」〜「向上するのである」に傍点]。その果《はて》は心靈の極度なる神に達して、神は花聟であるし、僕等は花嫁であるのだ。天は對を許さないから、僕等の状態は小い心靈全體の交通となるわけである。聖書の『天使は嫁がず、娶らず』を説明したのであらう。
 次に、メーテルリンクはどうかと云ふに、その『婦人論』[#「その『婦人論』」に白三角傍点]を見れば分る。心靈は、何萬年も先きから、愛せらるゝのを待つて居る[#「心靈は」〜「待つて居る」に白丸傍点]ので、愛の油さへそゝげば、その靈は無言の暗處から跳び出て來るのである[#「ので、愛の油」〜「來るのである」に傍点]。油を注ぐものも、注がるゝものも、はじめから豫定されて居るのだ。それは、必らずどこかで一度相見たことがある靈と靈とであるからである。たとへば、深みの奧に隱れて居る遠島から、手紙が來たとする――それが實際生きて居る人だか、居ない人だか分らないながら、
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