小い脊骨、手がついて居る。本脊骨の他端には、脛があつて、またその先きに足がある、これがまた別な脊骨の重なりである。手の指、足の指も脊骨の小いのである。人體の頂上には、また脊骨の丸まつたもの、頭蓋骨があつて、手が上顎で、足が下の顎で、手指と足指とは上下の齒である。それがまた心といふ體を以つて、新しい要素を食つたり、消化したり、分泌したりする。腦では、また、經驗といふ物を比較したり、取捨したりして、滋養の働きをする。また、新たに不思議な働きが起る、腦のうちでは男女の能力があつて、それが結婚もして居れば、兒を生みもして居る。かう云ふ風に、自然は螺線的に進歩をして、限りのないものである[#「自然は螺線的に進歩をして、限りのないものである」に傍点]。重力説もつひには形而上學の現象となるし、天文學もまた人の生命中に解釋が出來る樣になる。たゞ萬事萬物の働きが向上して行くのである。舌は小い舌の寄り合ひで、胃は小胃の集合,餓は小餓の、善は小善の集り。人は乃ち天の小いもので、大くなれば天と同一である。歸するところ、物質界は心靈界の表象[#「物質界は心靈界の表象」に白丸傍点]となつてしまうのである。
曾て博士三宅雄次郎氏が『我觀小景』といふ書を著はして、宇宙は大なる人體であると云はれた。それでは分泌もやるだらうが、どこからやると、故大西博士が嘲つたが、故博士の樣に哲學史の迷ひ[#「哲學史の迷ひ」に傍点]――と僕は名づける心持ち――に這入つて居られた人には、到底こんな大膽な獨斷は出來なかつたのは無理もない。たとへ批評眼の鋭い者でも、一たび自分の説なるものが吐ける時が來たら、他人からは自分がやつたと同じ批評と冷笑とが來るのは、豫期して居なければならないのである。哲學の系統が立つたと思ふ時は、早や獨斷に這入つて居るので、よし又それが立つて居ないにしろ、自家に生命を與へて居る説なら、之を發表する勇氣が出て來るに定つて居る[#「自家に生命を」〜「定つて居る」に傍点]。三宅博士の著が出た頃は、僕もスヰデンボルグを知つて居たので、或は渠の思想が、梨倶吠陀[#入力者注(9)]讃歌のプルシヤ(Purusha)、乃ち、『原人』とも譯すべき思想と共に、多少の影響を博士に與へたのではないかと、面白く讀んだことがある。
スヰデンボルグは、世界をかういふ風に料理して行くばかりでは滿足しなかつた。五十四歳の時、一
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