は、高等の心力が愉快に目覺めて來る時で、この時には、自然は尊敬を以つて神前を引き退いてしまう。』かう云ふ刹那を觀ずると、悲愁のうちにも快感を覺えるのである[#「かう云ふ刹那を」〜「覺えるのである」に傍点]。この快感の方面から、若し樂觀が出來るとすれば、それは悲的樂觀[#「悲的樂觀」に白三角傍点]とでも稱すべきものであらう。僕の考へでは、有限の人間には、悲愁は運命の樣に心底に横たはつて居るので、その上を樂觀するのは、或形式を以つて來て蓋をしたと同前[#「僕の考へでは」〜「蓋をしたと同前」に白丸傍点]で――エメルソンの樣な人は意志が強くて、自分の肺病を自分で直した位であるから、たゞ無理にでも、外形ばかりは、純粹の樂天觀を以つて押し通したのであらう。
エメルソンが煩悶をした跡は、どの論文を見ても分る[#「エメルソンが煩悶をした跡は、どの論文を見ても分る」に白三角傍点]――特に『代表的人物』で分る。プラトーンがその當時の東洋の冥想と西洋の實際的思想とを結合して、かの幽妙な獨創説――世界はイデヤ(ι´δεα)の權化であつて、之を想ひ起すに從つて、われ等は實體に歸して行くのであるといふ説――を建てたのに感服したが、如何にもその獨斷であつて、その學説の不完全、非自證的な點が分るに至つて、モンテーンの樣な懷疑家に走つた。
人間は、分らなくなると、萬事が不可解となる、否、解かうとすることがもう疑はしくなるものである。萬事を疑ふなら、いツそモンテーンの樣に、思ひ切つて疑ふが善い[#「萬事を疑ふなら」〜「疑ふが善い」に傍点]。――渠は最も正直な作者であると、エメルソンは云つてある。然し、同情がなくては人生の神秘は分りツこがない、手中の一世界は叢中の二世界よりも價値がある。前に引用してある通り、どうせ、地獄の下にはまた地獄がある,どんな學説でも、また倒れる時があるに定つて居るが、すべては久遠圓滿の大原因中に含まれて居るのだ――『たとへわが舟は沈んでも、それはまた別な海へ行くのである[#「たとへわが舟は沈んでも、それはまた別な海へ行くのである」に傍点]。』と悟つてから、またシエキスピヤやゲーテの樣な文藝的慰籍者に走つた。
それから、また、『人は皆神秘家である』と云つて、スヰデンボルグに走り,また、ナポレオンを罵倒しながらも、その大膽であるのとその明確な頭腦とを揚言して、『何でも想像に訴
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