するのに一番便利だといふ譯である。
自然の位置!
これに就ては、メーテルリンクは別に哲學的根據となる程の言葉を云つて居ない樣だが、僕の意見を云ふ時、尚兩人の説に及ぶとして,エメルソンに據ると、思考的理性と實際的理性、云ひ換へれば、哲理と徳行とは、おのづから唯心的傾向を來たすもので――思想の光に照らして見ると、世界は常に現象的であるが、徳行はこの現象的なるものを制服して、内心に向けてしまう。エメルソンの唯心論は世界――自然――を一大心靈のうちに見たのである[#「エメルソンの」〜「見たのである」に白丸傍点]。
先きに非我と定めた自然は大我のうちに融和するので――それで、自然が全く無くなつて居るのかといふに、そうでもない。かうなると、大乘佛教の面影も見えて、世界は神聖な夢であつて、その夢の中にあらはれて居る自然は、心靈が百尺竿頭一歩を進めて、下方へ權化したので、心靈から云へば、その無意識的射影であるのだ[#「世界は神聖な夢であつて」〜「その無意識的射影であるのだ」に傍点]。僕等は乃ち神の落ちぶれたので、自分から現在の樣な姿になつたのである,自分等から太陽も月も流出したので、男子から出たのが太陽となり、女子から出たのが月となつた。それが何たる不敏だ、今では月と日とを拜んだりするものとなつてしまつた。然し、自然の理法が僕等の本能に働くと、本能は、プラトーンの所謂想起説の樣に、その働きに由つて、僕等を段々小我から解放して、たとへば盲人が視力を恢復して段々光に接して行く樣に、心靈の力が活躍して來るのである。
僕等が大心靈に合體してしまへば、もう、それが極致であるが、それまでの道行きは崇拜の念[#「崇拜の念」に白丸傍点]を以つて爲なければならない――また、必らずそういふ道念が生じて來る。人は心靈といふ説明し難い物のことを考へると、その考へが進めば進む程、之に就いて語ることが少くなると、エメルソンも云つて居るが[#「人は心靈といふ」〜「云つて居るが」に傍点]、無言に至つてその極に達するのであらう[#「無言に至つてその極に達するのであらう」に白丸傍点]。
これは『自然論』の要點であるが、心靈その物の解釋は何處《どこ》にも見えて居ない。エメルソン自身もその思想が進歩するに從つて、論旨に滿足しないところが出來たさうだが、そんなことはかまはない。メーテルリンクが渠の議論から自分の考
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