べからざる人格の打破[#「確立すべからざる人格の打破」に白三角傍点]である。道學者輩の人格論はもう論ずるまでもなくなつたが、坪内博士並にその他の頻りに主張せられる性格劇は、僕の半獸主義から云ふと(僕はまだ作劇の上で試爭するのではないから、それは斷つて置くが)、まだ、來らうとする新文藝の遵奉すべき形式ではない。シエキスピア流の作劇法はもう段々廢れて行かなければならない。一刹那の電光を描寫布衍する劇には、歴史的束縛を意味して居る性格などは不用ではないか[#「一刹那の電光を」〜「不用ではないか」に傍点]、たゞ暗中からひらめく靈果を、その塲で捕へさへすれば善いのである[#「たゞ暗中からひらめく」〜「善いのである」に白丸傍点]。それには、在來の夢幻劇の樣に、事件を主として登塲人物の人格にあまり重きを置かないから、蚯蚓《みみず》[#入力者注(5)]の如くたゞ一塲を切り取つて來ても、なほその効果を有する組織が、却つて善い方法の一つであらう。時處の統一の如きは、尚更ら重んずるに及ばない。僕から見れば不自然な性格追行と時處の統一とは、之に拘束される文藝を導いて、客觀的枯空の状態に落入らしめるのである[#「僕から見れば」〜「落入らしめるのである」に傍点]。シヨーペンハウエルならば、これが意志の藝術的客觀化であつて、之に對する間は、自分の意志の臨時的絶滅であるから、文藝その物の慰藉はこれから來るのだと云ふであらうが,これは、戀愛の趣味と同樣、客觀即ち非我の表象を喰つてしまへば、跡は更らに慘憺闇黒の自我が殘るのであるから、渠の如くまた別に意志絶滅主義の倫理を建てない以上は、それを以つて滿足することは出來ないのである。倫理又は主義に導く創作は、まだ最終極致の文藝とは云へないのである[#「倫理又は」〜「云へないのである」に傍点]。
然らば、僕の所謂劇を組織する要素[#「僕の所謂劇を組織する要素」に白三角傍点]は何かと云ふに、諸表象の盲目的活動とその衝突と[#「諸表象の盲目的活動とその衝突と」に白丸傍点]である,乃ち、意志と意志との喰ひ合ひである。短言すると、自然即心靈の活現である。それが刹那的表象の作用を借りて、或は事件にもならう、或は人物にもならう、或は又動作にもならう。一大天才があつて、かの夢幻劇を整理することが出來たなら、僕等の渇望するドラマが組織されようと思はれる。メーテルリンクの所
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