分らうと思ふ。主義としては、何も新らしくはない,歴史から見れば、諾册兩尊が、鶺鴒の飛び來たつてその首尾を搖がすを見て、美斗能麻具波比《みとのまぐはひ》を爲し給ひてから、何人も實行して來たものである。然し、世の道學先生、科學者輩の爲めに、その解釋と取り扱ひとが誠實と眞率とに遠ざかつて來たのも事實である。渠等は知力といふ短いはしごによつて、天上へ登らうとするのだが、到底登り切れないのだから、その天上と連絡して居る地心をも窺ふことが出來ない[#「渠等は知力といふ」〜「出來ない」に傍点]。何のことはない、精神界にあつて、消防夫の出初め見た樣なことをして居るのである。一刹那の情火が全世界を燒いて居るのを知つたら、渠等はその職を投げうつて自分等の平凡無趣味なことに驚くだらう[#「一刹那の情火が」〜「驚くだらう」に白丸傍点]。
多神教も、その原始の時代には情熱はあつたが、その死灰同前になつた偶像を耶蘇教が打破してしまつた。その耶蘇教もだ、マリヤや基督の樣な偶像があつた時代はまだ活氣があつたが、新教分派以來、段々と生命の枯れた博愛、正義、人道などいふ偶像が出來た。かういふ偶像を打破するのは、今度は、新文藝で――その先驅者イブセン、ダンヌンチオ、メーテルリンク等を、ヒウンカーといふ人が評論して、その論文集を『偶像破壞者《アイコノクラスツ》』と名づけたのは面白い。どうせ、一つの偶像が倒れても、また別のが出來る。たゞそれが原始的、本能的に情熱と活氣とを持つて居さへすれば、必らず自然主義の生命、乃ち僕の所謂神秘界に觸れることが出來るのだ。
半獸主義は、夏の雲の樣に碎ける哲學の系統と組織とを持たない,その代り、大海の活動と沈靜と深みとを有する情と共に隱見して來るのである[#「半獸主義は」〜「來るのである」に傍点]。この主義の神體は、哲學者にはスフインクスと同じく謎と見へようが、文藝家は宜しく之を拜してから新文藝の深奧を窺ふべきものである。
(十九) 熱誠と威嚴――國家問題
僕の主義から、自然に豫想せられるのは、熱誠と威嚴[#「熱誠と威嚴」に白三角傍点]とである。
或人、僕を攻撃して云ふには、半獸主義は獨善利己の主義であるから、熱誠や威嚴のあらう筈はないと。然し、時々刻々自分を救ふに急であつて、僅かに刹那の救濟をのみ脱しないように努むべきものが、何で他を返り見るいとまがあらう。―
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