ると、白倉山の後ろ手が、そこも岩だらけのあひだにこうえふしてゐるのが見える。そこから眞ッ直ぐに、また、自動車みちを三丁ばかりで有名な清琴樓もある温泉場を、廣い河原を隔てて、高みの路傍から見た。が、はた折りの位置は周圍の山々が少し遠くひらけてゐて、そのながめは廣い河原を渡つてこちらがはの山々のはにかみ笑ひを見るに在るばかりらしい。そこへ立寄つて一泊しようかとも考へたのを、それが爲めに直ぐ引ッ返した。
「そりやア、鹽の湯よりもここのけしきの方がいいでしよう――鹽の湯は山と山とのあひだですから、ながめが窮屈です」と、車夫に云はれたけれども、一方では、いづみ屋の番頭から、
「何と云つても鹽原のけしきは鹽の湯が一等ですから」とも聽いてゐた。そして僕もこの方が一泊するに足りさうだと云ふ豫想にうち勝たれた。
 その當時は壓制家と云はれて縣下のひらけない人民と死を以つて爭つたやうなものだが、もとの三島知事の思ひ切つた道路開拓は今となつてはなか/\爲めになつてる。この鹽原の奧をもッと奧までも自動車がとほるのだ。が、内湯の出もとにかかつてる橋を渡ると、川の支流をさかのぼることになるのだが、ここの道は三島道路ではなく、お兼《かね》みちと云つて、鹽の湯のお兼と云ふ婆アさんが自分一個で切りひらいた道だ。狹くなつて、而も隨分ひどい坂があるので、自動車は通じない。慣れた車夫は、然し、どうやら斯うやら十丁の道をのぼりつめた。僕よりも一と足さきであつた中年の夫婦づれは、ずるい車夫の爲めに、車をおろされたけれども。
「鹽原は一體に坂みちですから、のぼりの時はからだが延びさうになるし、下だりにはまた腕が拔けさうで――」先般、東京から稼ぎに來た車夫は三名とも一週間とこたへられないで引き上げてしまつたさうだ。
 お兼みちの初まりは兩がはに植ゑ付けたやうな杉と檜の木とで大抵のながめはふさがれてるが、坂の中腹からながめがまた下の方へひらけて、坂の上へ來ると、天狗岩の横手までが高みからずッと見渡された。そこに鹽の湯の大きな宿屋がたッた三軒だけあるのだ。茗荷屋《めうがや》と云ふのが客でふさがつてたので、玉屋と云ふのにあがつた。車は七十錢取つた。宿は一泊貳圓で中等のところだ。
 僕に當つた三階の一室の正面には、川を隔てて一とかたまりの杉の森がその腰から以上を見せてゐる。が、その後ろうわ手も青と赤相ひ半ばの景だ。そして縁がはへ出ると、目の下にうづもれたこうえふのあひだを右から左りへと十間はばばかりの川水が白く音を立てて流れてゐる。その上流と下流とからうへへそり返つて黄、赤、べに等のいろづき葉が、松その他の針葉樹の青葉と入りまじつて、横へ四つに重なつた山山の絶頂まで一面につらなり渡つてる。隨分大きいと云へば大きい景だ。そしてその全景を引き締める爲めのやうに、例の杉の森が一番こちらへ近く、僕の目の前に立つてゐる。無論、その眞ッ下の崖にもこうえふはいち面だ。つまり、ながめのそらからも、またその目の下からも。赤い照らしが滿ちて來て、それを眞ン中に針葉樹の青さが一層に引き立ててゐる。
 福渡りのは――僕の占領してゐる場所からは別だが――かの川添ひの部屋々々から見ると、こう葉をこう葉の中から見るやうな景だ。が、ここのはそれを近く見おろし、遠く見渡すのである。近く迫つた方だけで云へば、北海道のこうえふの一名所|神居古潭《かもゐこたん》の景に似てゐて、ただ面白い釣り橋がないばかりだ。が、また、かの釣り橋の代りに、僕らの倚る高どのの欄干《らんかん》がある。そして下を見おろすと目がくらむほどだ。
 晩食にはまだ二時間ばかりあるので、以上けふの日記をお前へ出しかたがた、そとへ出て、もッとさきの方の道へと狹い芝ばしを渡つて進むと、行く手の川ぶちに少し平らかな廣ろ場が見えて、植ゑ付けたやうに紅葉樹の幹が立ち並んで、多くの幹と幹とのあひだがこれも赤さうな太陽のよこ照らしに向ふのそらを透かし彫りにしてゐる。來たついでにそこまで行き付くと、入り口に梅ヶ岡と云ふ立て札がしてあつた。その中で僕の丁度一と部屋置いて隣りにゐ合はせた中年者夫婦が一緒に寫眞を取らせてゐたのを少し隔ててながめながら行くと、向ふの方から何だか見たやうな人がにこ/\してやつて來るのではないか?
 お前は誰れだッたと思ふ? 婦人作家の○○さんなら、近ごろここへ來てゐるとか新聞にあつたから、ひよッとすると出會ふかも知れないとは思つてたが、小寺健吉氏とは僕も思ひも寄らなかつた。繪に適する位置を方々探してゐたらしい。而も同じ旅館の四階に來てゐるのであつた。渠《かれ》は毎年來るのだが、
「去年の今ごろは、もう、こうえふが半ば以上過ぎてゐたが」とのことだ。暫らく一緒に崖のそばの腰かけに休んだが、僕らの目の前に紅葉して崖の中腹からかしらを出してる二本の特別な
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