前のではないかも知れぬが、高い松が一つあつて、左右のこうえふを拔いてゐる。その松や別莊は丁度、恰も赤い山の樹木とつらなつてそのふもとにあるやうに見える。その少しさき(來た道の方)に鳥居戸《とりゐど》山のこれも赤、黄こきまぜのこうえふが見えて、その裾に陛下の御用邸がある。(今上陛下は鹽原をおきらひだとか云ふことで、日光へばかりお行きだけれども、皇太子殿下はよくここへ來られる。)兎に角、この室から四方をながめると、靜かなもので、火鉢の湯のたぎつてる音がしてゐるあひだに、川の音が始終遠く、そして時々自動車や馬車の發着の響きが松や檜葉や赤い實ばかりになつてる柿の木やの樹かげから、聞えるばかりだ。
「僕のやうな商賣のものがこの宿へ來たことがありますか」
と、主人に聽いて見ると、
「大町さんと云ふお方が暫らく御滯在のことがございました」との答へであつた。同伴者――と言へば、田中君や松本君だらうが――二三名と來て、大分に酒の飮めるのを見せたらしい。餘ほど驚いてたやうすであつたので、僕は、
「今ぢやア、もう、あの人も全くの禁酒をしてゐます」と知らせてやつたら、これにも主人は不思議な顏つきをした。はた折り温泉場の清琴樓と云へば、故尾崎紅葉の爲めに有名になつたも同樣で、もとは小さい宿屋であつたが、他がふさがつてたので斷わられて渠《かれ》はそこへとまつた。そしてそこの場面をかの『金色夜叉《こんじきやしや》』に書き入れたので、今では評判になつて、多くの人々がきそつてそこへ行くが、そしてその場所では一等の家に廣がつたが、土地の人はいまだに清琴樓(紅葉がつけたも同樣の名)など云はれても氣が付かないで、何とか屋と元の名でなければ分らないとのことも話にのぼつた。紅葉や大町氏の書いた物が鹽原にも殘つてると云つて、番頭までが僕にも何か書いて欲しいやうすであつたが、僕は例の通り字がへたなので、遠慮して置いた。
 午後一時、これから雜誌人間十二月號の爲めの小説を書き初めるのだ。英枝《ふさえ》よ、これは日記の一節だから、手もとへ行つても、このまま保存して置いて貰ひたい。鹽原は交通が不便な爲め今のところ二度と來るつもりはないから、來た以上、暫らく滯在する。そして『人間』の小説と中央公論へ渡した物の續き四五十枚を書いてしまうあひだに、一度もッと奧の方へ遊びに行つて來るかも知れない。兎に角、轉宿等の知らせが行くまではここへ東京日々だけを毎日送つて貰ひたい。大抵の手紙も保留して置いて、誰れから何が來たと云ひさへすればよし。

    *

 湯は並んで大小三室にも別れてゐるが、客としては僕ひとりが自由に占領してゐられるやうなものだ。本館には誰れもゐないやうすだ。
 十月廿九日。曇。今曉二時まで起きてて、今一度湯にあッたまつてからとこに就いた。けふ、晩食後、別館の老人夫婦を訪問して見たら、
「孫がむづかるので、もう、あす歸らうと思ひますが、自動車は癪にさわりましたから、馬車にしようと思つてます」と云つた。馬車で新鹽原まで行き、それから輕便鐵道の便があるのだ。
「僕も歸る時にはさうするかも知れません」と答へた。然し、旅へ出てゐても腰を据ゑてるあひだは、二度と來るか來ないは考へるが、まだ左ほど歸りのことが苦にならぬものだ。
 十月三十日。晴。けさの二時に『子無しの堤』と云ふ、實際に人間らしい小説を五十三枚書き終はつたので、十時に起きて食事をすませると、一と息入れて來るつもりで車上を奧の方へ行つた。福渡りの宿屋が並んでる道を三四丁も行くと、その突き當りに白倉山《しろくらやま》のふもとなる天狗岩と云ふ大きな石が山にべッたりと廣がつて屹立して、その周圍もみなこうえふだ。
 そのけはしいやま裾を左りへ曲つたところに、直ぐ退馬橋《たいまばし》がかかつて、川添ひ道が走つてゐる。然し、橋からまた直ぐのところに横へ左りに渡る橋があつて、そのさきは植竹氏私有の公園だと車夫は説明した。そこにも樹の葉の色に照つてるのが望める。植竹氏の第四子に當る人は東京に出版屋をやつてたこともあつて、僕も直接知らないでもないのだから、この公園の名も多少の親しみがあつた。それをながめながら、川のこなたを進んだ。
「植竹さんだッて、縣下一等の金滿家としても百萬圓はありますまい。それに、内田信也と云ふ人はただ栃木縣に生まれたと云ふばかりで高等學校建設の爲めに百萬圓を寄附したと云ふのですから、土地のものは皆呆れたほど驚いてをります」と云つた宿の主人の言葉を思ひ出しながら。
 退馬橋から三四丁來たところに、鹽釜と云ふ宿場があつて、そこの鹽原郵便局で人間社宛ての原稿の書き留め郵便を出した。また二三丁で(この邊はさう人の目に見えないでのぼり道になつてるが)福渡りの宿々の内湯へ引いた湯の出もとのあるところへ來た。この邊の川ぶちから見返
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